他責にしない方法は、フンをかけてきたハトに感謝する方法と同じだ
他責にする行為は、最も醜く愚かな知的行為であると思う。愚か、というのは、その瞬間に自分の成長にプラスにならないからだ。
そうわかっていても、突発的に起きた事象で知らず知らずそうしてしまっていることがある。後で後悔することもある。
それを解決する方法を発明してしまった。これはスゴイかもしれない。w
その方法とは、
「すべての事象を、"奇跡"というレンズを通してみる。」
というものだ。
ただ、これだけだ。
嫌な思いをした体験、例えば、ハトにフンをかけられたということがあったとしよう。
たいていの人は、「あぁ、最悪だ」「運が悪い」「なぜあそこに屋根を作っておかないのか」とイライラして流してしまうのではないだろうか。
ハトにフンをかけられたことを「被害」というレンズでみると、こうなる。
一方、ハトにフンをかけられたことを「奇跡」というレンズで見てみよう。
ハトにフンをかけられるのは人生で数回もないことだから、確率的には奇跡である。とまず奇跡を肯定する。この肯定は重要だ。
これを越えればあとは簡単。
「奇跡」というワードには不思議な力があるからだ。
なぜなら、そのレンズを通しただけでこう考えないだろうか。
「なぜ、その"奇跡"は起こったのだろう」、と。
「神様は自分に何を経験させたかったのか」、と。
そして、事象分析に入る。
「フンをかけたハトは悪意があったのだろうか?」
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「あったとしても、もしかしたらその前に、人間にイタズラをされたとかがあるかもしれない。」そうだとしたら、かわいそうだ。
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「いや、今回は、ハトの知能レベルを考えると悪意がない、と考えてみるのが妥当ではないか。」カラスなら悪意認定できそうだけども。
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「なるほど、悪意がない行為で人を傷つけるということがあり、その痛みや辛さがどんなものか、これが、神様が自分に伝えたかったことではないか。」
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「他の人も同じ経験をしたらこんな嫌な思いをするのかな」と考える。
人の気持ちになって考える、ということを実践できだす。いつもは忙しくてやれていないようなことかもしれない。
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「自分自身も今回のハトのような行為をしていないだろうか、良かれと思って。しているとしたらどういうことだろうか」、と考える。
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そして、そこでいろんな思い当たることを考え直すきっかけになる。その瞬間からそういうことに気をつけるようになる。
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つまり、自分は少し成長できたことになる。しかも、なかなかできない被害者の痛みをリアルに感じながら、体験として心に刻むことができるのだ。
「被害」と捉えた人にはイライラしか残らない。場合によってはそのイライラに便乗して、他人を傷つけたりしているかもしれない。これが、"他責"という行為だ。
一方、「奇跡」と捉えると、もっと暖かい気持ちになる。ハトを恨むことはない。むしろ感謝すらできる。これが、「他責にしない」ということでもある。
どんな事象もと言ったが、意識するのはネガティブなものだけでいい。
「奇跡」と捉えることですべてが「他責にしなくなり」、自分にプラスになる。
独立し、人と人とのつながりの強さもモロさも、自分の無力さもとてもよく感じることができる。しかも、独立後の出会いは、すべてが本当に奇跡のようなものだ。自分が生きていくために残された方法は、成長する方法以外に道はない。だからこそ、今回のような思いに強く目が向けられる(=奇跡の体験)ようになったのだと考えている。
だから、他責にせず、常に成長するために、普段から意識して考えている方法だ。