12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

不器用である事実から逃げてきた。それをやめた時、、、

不器用であるのに、器用ぶると、もっとおかしくなる。


周りにそう言う人がいると、すぐに気にくせに、自分がそう言う行動をしていることには気づかない。

 

白状する。自分は不器用な人間だ。ご存知の方もそうでない方も。

(いや、そんなの知ってたよ、と言われると嬉しいような恥ずかしいような。)

 

でも、信じて欲しい。

騙そうとしたわけではない。

世の中の不器用な人たちの代弁としても。

 


「できないことがあれば、必死でできるようになりたい」とそう考えていただけだ。

 

それが、少し時間が経つと

「必死でできるように"みせ"たい」にすり替わっていて、自分でも気づかない。


「あれ、いつからこんな言い方していたんだっけ?」と思うことがある。

 

正直、褒められるのは嬉しい。嫌な気はしない。
けなされるのは、嫌だ。いい気はしない。

 

そんな当たり前の感情ベクトルを忘れると、こういう風にぶれるのだと思う。

 

でも、最近、気づいた。

そもそも不器用であることをどこかで否定するから、流されるんだ、ということに。

 

考えてみた。

 

不器用を器用に見せる人を見て、すごい嫌な気がするのに、
不器用をさらけ出している人を見ると、むしろ好感を持てるではないか。なんと。

 

それは、なんと、器用な人が器用にしているところを見るよりも、はるかに、だ。

 

???

 

つまり、器用より不器用な方がいいってことじゃ・・・。

そう考えると楽になった。単純な人間だ。

 

「不器用さを誇れ。」

 

だから、最近は思ったことはできるだけやるようにしている。

返信しなくてもいいメールに返信して鬱陶しさを存分に出し、
わざわざ言わなくていいことを言って、煙たがられてるだろう。

 

そういうのをわかりつつ、心の中で「すいません、不器用なんで」と呟いて忘れる。なんと卑怯な。

 

でも、誇れることは、1つも嘘がないこと。
言いたいから言ってるし、したいから行動してる。

自分がそうされたいこと、それをする。

 

器用になろうとしてた時は、

器用にしようとしない人の行動にイライラしたけど、

それが随分なくなった気がする。

 

その人はそれが得意じゃないし、好きじゃない、それだけなんだとわかったから。

 

本当に、共感したり、同じことを考えている人は、不器用な行動で見せてくれる。

 

ちょっとおかしいくらい反応したり、

ワントーン高かったり、

不必要な大声だったり。

 

圧倒されるくらい、

行動が早かったり、しかも早すぎたり。

 

不器用は、不器用を見つけ、満足する。嬉しくなる。

 

それでいいじゃないか。
結局、それでも人は成長する、しかもねじれが無いから、むしろ速いとさえ思う。

 

不器用は不器用らしくあれ。そして誇れ。