実はプロセスこそ、ゴールだった
誰しも「手段を目的化するな」ということを聞いたり、発言したりしたことがあるだろう。
これは即ち、人間がDNAレベルで「手段を目的化するクセ」を持っているから発せられる言葉だと言えよう。
この「手段を目的化するな」というのは正論である。ビジネスの現場においては、このような姿勢正しによって、強烈に目的を思い出すツールとしては、何も間違っていない。
しかし、ここでは「手段も目的化する」ことを否定できないということを考えて見たい。
どういうことだろうか。
例えば、子育てで考えてみよう。
子育てのゴールは?と考えると非常に難しいが、多くの人は「立派な大人に育てること」みたいなものを考えるだろうと思う。これを仮にゴールとしよう。
その目的を達成するには、例えば「感受性が豊かな人間になってほしい」→「一緒に遊んで、一喜一憂して、悔しい思いを感じさせて、その感情と向き合うこと」を体験させたい、とする。これはゴールからすると手段である。
手段を目的化しないというのを徹底すると、「立派な大人になっているか、それにつながっているかどうか」を常に考えることになる。これはあまりにも難しい。
その一瞬一瞬に没頭して楽しんではいけないことになる。ゴールにつながっているか曖昧なものは選択できないことになる。
このことから、手段もある程度は、目的化しなければならないということがわかる。
また、手段はゴールに向かっての過程(プロセス)と言い換えることもできる。
別の例でも考えてみよう。
ビジネスで成功したい、お金持ちになりたいというゴールを描いたとする。手段(プロセス)を目的化しなければ、ゴールさえ達成できれば、プロセスはなんでもいいことになる。
これは、本当にそうだろうか。
もし、お金持ちになるために、人を裏切らなければならないとしたら、多くの人を傷つけなければならないとしたら、それを実行することがその人にとって良いことなのだろうか。一部のサイコパスと言われるタイプの人を除き、多くの方はそれを望まないのではないだろうか。
つまり、多くの人にとって、ゴールのために、どういうプロセスを経るかがとても重要であると言えるのだ。
これは、なぜなのだろうか。
これを考えるために、ジョン・レノンが発したと言われる以下の言葉をみてみよう。
ぼくが5歳のころ、母は幸せこそが人生で一番大切なのだといつも教えてくれた。学校で大きくなったら何になりたいか書きなさいと言われ、ぼくは「幸せ」と書いた。みんながおまえは課題をわかっていないと言うので、ぼくはあんたらは人生がわかっていないと答えた。 人生とは、あれこれ計画を立てるのに夢中になっている間に、ぼくらの身に起きていることだ。
この言葉は、とても面白い。核心をついていると思うわけである。
つまり、多くの人にとって、何かをやりたい、何かを成し遂げたい、何かを得たいという、いわゆる目標と言われるものは実は、ある1つのもの、つまり「幸せ」になるという目的のための手段でしかなかったのだ。
そして、「幸せ」というゴールは非常に深い。それは、点や線でなく、面や立体である。なぜなら、明確な定義ができないからである。
要するに、「幸せ」はプロセス全体を包含したゴールなのである。だから、今起きている1つ1つのことが「幸せ」に繋がるのだ。つまり、プロセスは密接に「幸せ」に影響しているのである。
これらのことから、「実はプロセス自体がゴールそのものである」と言い切ってしまえるのではないかと思うのである。
子供が立派な大人に明日変わってくれれば、日々子供と過ごすこと、いい思い出だけでなく、口すっぱく言って気分悪くなったり、喧嘩したりすることも全てスキップしていいかというとそういうわけではないのだ。
夢を見て、ビジネスで成功しようとしていることも、その過程で色々楽しみ、苦しみ、必死で進んでいること全てが、スキップすると幸せを手放すことになるのだ。
自分らしくあり、自分らしく生きること、それ自体が、ゴールを形成しているということだろう。
かのスティーブ・ジョブズが発した「明日死ぬとしたら、今やっていることをするだろうか」という言葉を実践してみると、このことがよくわかる気がする。
明日死ぬとしたら、明日達成できないプロセスをやめてしまうのか、それとも1つ1つでも進めようと考えるのか。
前者で考えてしまっていることは、幸せではないことをやっている可能性がある。
後者で考えてできていることは、それ自体が幸せであることを証明している。
しかし、単純な視点で考えてしまうと、この評価は誤ってしまう。なぜなら、人間は短期的な快楽に寄ってしまうからだ。
その時には、マハトマ・ガンジーの次の言葉がきっと良い判断をもたらしてくれる。
明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。
明日死ぬと思うわけなので、猶予は一刻もない。無駄なことは一切やめよう。
一方で、知識を得ること、積み重ねること(これも学びの一種と捉える)は、不老不死と思って良いので、いくらでも時間をかけて良いのである。
さぁ、あなたが明日死ぬとしたら、今やっていることを行うだろうか。
それでも行うのだとしたら、それをとことん楽しもう(苦しもう)ではないか。それがあなたの目的なのだから。