わざと、ギリギリを選ぶ。
ギリギリがいい。
リソースや時間やお金が潤沢にある方が良いと思いがちだが、ギリギリの方がいいこともある、いやむしろそうでなければならないケースもあると考えるようになった。
以前、資金調達をされた起業家の勉強会で、資金調達後が実はすごく危険という話を聞いて、モヤモヤしたものが確信に変わった気がする。
どんな仕事をしていた時も、忙しくない時や時間が欲しくない時はなくなる。
「もう少し時間が欲しい」
「もう少し人が欲しい」
そんな状況は、どんな時も訪れる。
しかし、これくらいの方が実は一番充実しているということだ。
実際に時間が1日25時間になっても、おそらくアウトプットはあまり変わらないと思う。人が少し増えても、もう少し人が欲しい状況は変わらない。
もちろん、楽をしたいという意図でなければ、時間やリソースは可能な限り増やせば良い。その上で新しいギリギリのラインを求めることができる。
潤沢にある状況を想像してみると、本当に怖い世界だ。
いくらでも使えるお金があって、いくらでも使えるリソースがあって、いくらでも使える時間がある、とする。
そんな時は、今みたいに、
「やりたいことを厳選して」、
「それを選んだからには魂を込めて」、
「できていないことを人から指摘されないように必死になって」、
そんなことが無縁になってしまうのではないか。
つまり、表面的な仕事が常になりやすくなる。「時間がある」と思った時の仕事の効率は明らかに悪いということは、誰しも体験済みのことかもしれない。
だから、ギリギリがいい、と思うようになった。
ただし、ギリギリは疲れる。というのはある。
常にプレッシャーに突き動かされる訳だから。
しかし、そのギリギリを自分が決断したと言える状況を作ると、つまり、ギリギリじゃない選択肢が常に横に用意してあって、それを選ばないという状況を続けると、そのプレッシャーはストレスにはならないと思っている。
だから、後に残らないし、追い詰められない。ただのプレッシャー(押してくれるもの)であり続ける。この境地が少し見えた気がする。
だから、わざとギリギリを選ぶ。
これが良い判断なのかもしれない。
ただ、これは資金やリソースをわざと増やさないという訳ではない。ここが難しい。生きている資金と生きているリソース、生きている時間だけを増やす、つまり、必要最低限を決めること。少なすぎると、"わざとギリギリを選んだ"ことにはならない。この加減が、難しいけど"戦略"そのものなのかなと思う。
ギリギリの状況を好むことができなくなったら、起業家や仕事人としては終わる時なのかもしれないとすら思う。
それは挑戦していないということかもしれないから。
ギリギリの時に生まれたものには、魂が宿る。
だから、疲れるけど、ギリギリがいい。