12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

「懐中電灯1%の法則」で、未知の問題を解く。

[「未知の問題」へ対応できるか]

すぐに「やってみない」人に「未知の問題」は絶対に解けない。

 

「未知の問題」とは、これまでの方法では判断できない事案や、何が問題かもわかっていないケースへの対応や、自分には解決できるのかわからないような問題のことだ。

 

ビジネスマンは大抵忙しい。だから、合間に自分のタスクをこなすことになる。そうすると、まとまった時間がなければやれないような仕事は後回しになる。「未知の問題」は後回しの典型的な対象だ。

 

[ 経営者は「未知の問題」から逃げることは許されない ]

経営者や事業のリーダーでない場合、周りの評価を得るためには、これらは極論、無視しても構わないことが多い。小さくできることをこなしていれば、十分に評価は得られてしまうからだ。もちろん、ポジティブに期待を裏切ることもないが。

 

しかし、実はそれは成長の道を少しずつ閉ざしていることなのだ。忙しくしていることで満足感を得ていると、将来のある時、空虚感に襲われることになるだろう。でも立場によってはそれだけで済むと言っても良い。


経営者やその事業のリーダーがこうなった場合、その会社や事業は「市場の成長」と「これまでの頑張り」の慣性に委ねることになる。競合の経営者や事業のリーダーがこれを打ち破れてしまった場合、「試合終了」となることさえ覚悟しなければならない。

 

このような立場の人は、ない時間の中でも「未知の問題」をきちんと判断して対処していくことが絶対不可欠なのだ。それができないなら、早くその立場から身を引くべきだ。

 

[「先天的能力の不足」に言い訳を委ねるな ]

なぜ、人は「未知の問題」をすぐにやってみようとしないのだろうか?

 

その答えは「恐怖」だと思う。
「未知の問題」への対処は、真っ暗闇で目の前にある異物へ対処するようなものだ。
ただ、大小あれど、実は人間は誰しもこの暗闇を少しだけ照らす懐中電灯を懐に持っている。でも不思議なことに多くの人がこれを使わない。

 

なぜか。

それは、真っ暗闇を照らしてみる行動は実はとても恐怖に満ちているからだ。
「もし、みたくもないものだったら」
「もし、手に負えない存在であったら」


そんな恐怖が、多くの人に懐中電灯を使わせないのだ。
そして答える、「検討します。」と。多くの場合、(結果的には)する気もないのに。

こうして、その問題は、暗い倉庫の奥にしまわれ、そのまま二度と出てこないことも普通だ。

 

上述の通り、「未知の問題」を後回しにしない力を「恐怖」への対応だと言った。

つまり、先天的能力(生まれ持った知能やスキルなど)ではないと言い切れると考えている。意思を中心とする後天的能力だ。

「いや、自分にはそういう力や経験がないので・・・。」という言い訳は「やる気がありませんでした。やるべきだと思えませんでした。」に等しいと思うべきだ。だったら、最初から潔く後者を言えば良い。

 

[ 恐怖を感じる「未知の問題」の出現は絶大なチャンス ]

もし、目の前の物体に恐怖を感じるなら、なおのこと、はっきり照らして確認をするべきだ。しかもできるだけ早く。

なぜなら、そんなチャンスなことはないからだ。

そんなに経験をしてきた、真剣に向き合ってきた自分ですら感じる恐怖だからだ。

 

競合が同じ恐怖を感じないはずがない。その中で何%の人がこれを後回しにしてくれるだろう。つまり、それを乗り越えればライバルがまた少し減るのだ。

 

[ 対処方法「懐中電灯1%の法則」 ] 

最初に問題に懐中電灯の光を当てると、想像通りの恐怖が待っている。

「あ〜、やっぱりきたか、今度こそ本当に大丈夫かな」。いつもそう思ってしまう。

 

しかし、そこで目をそらしてはいけない。実は多くの場合、その対象とその周囲を順々に照らしていくと、実はそれが未知のものだけではないことがわかる。

(ここだけすごく実務的な話を書くと、このようなケースは目の前で起きていることをテキストエディタを開いて、ひたすら文章におこすようにしている。頭の中で考えてばかりいると自分の中の恐怖感が、問題を実際よりも大きくしようとしているので、文章化することでそれが明らかになり除外できるからだ。私の中で、懐中電灯はテキストエディタだ。)


そして、実に多くのケースで、数分〜数十分で最初の大きな問題(正確には大きいと思っていた問題)の解決の糸口が見える。

今の感覚では、この閾値は作業全体にかかるだろう時間の1~2%くらいの時間だ。この感覚値は実際の作業をベースに擬似体験をしておくべきだ。300分(5時間)ほどかかると思っていた作業が最初の5分ほどで解決の糸口が見つかることが実に多いのだ。

もちろん、毎回そういうわけにもいかない。うまく解決策が見出せないこともある。敗北感も十分に味わうが、これは「失敗」と言って良い。

私自身は10~30%ぐらいで解決できない場合、負けを認めて逃げる。その問題のうち、多くの場合、人を頼ることで解決する。自分でやってみてできなかったので、すんなり人を頼れるのだ。相談しようとしたタイミング、または直後で糸口が見つかることも少なくない。メールで相談しようとして、送信ボタンを押す直前で気づくことも何度もある。

 

逆に、最初の1%の労力を惜しんで、または逃げて、この問題を心の奥の倉庫に一度しまってしまうと、再度引っ張り出してくるには時間も、恐怖も、疲れも労力も増加する。一度しまってしまったこと自体がさらに恐怖感をうむ。同様のケースはスルーして倉庫に山積みされる。

こうして対処できなかったことは「失敗」ですらない。ただの「逃避」だ。敗北感をまともに味わうことはないかもしれないので、その方が楽だと誤って思ってしまうなら、以下の言葉を復唱すると良い。

 

「失敗は成功の元であるが、逃避は成功にとっての毒である」

 

小さな違いに思いがちだが、とても大きな違いなのだ。


たった1%。それだけいいから真剣に考えよう。
解決できず絶望する恐怖に少しだけ向き合おう。他のこなせてしまう「既知の問題」タスクの達成感ばかりを味わいたくなる気持ちを少し抑えて。

それが「やってみる」ということだ。
これができない人に、その問題は絶対解けない。

 

そして、やってみると実に簡単なことがある。

そんな時は「何を悩んでいたんだ、バカだな」と数分前の自分に圧倒的勝利感を味わうことすらある。(と同時に恥ずかしさと自己嫌悪感も感じるが。)

 

この重要性を忘れないために、これを「懐中電灯1%の(問題解決の)法則」と呼ぶことにしておこう。