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12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

「誕生日のメッセージを送ろう!」っていう機能

これは、本当に個人的な意見です。そして多くの人にとって、どうでもいいことです。

多分、私自身が未熟だから、考えることだと思うのですが、、、

 

SNSで誕生日を祝いあう文化に、慣れられません。

 

もちろん、それを祝う人、祝われる人を否定する気は一切ありません。

自分自身も過去には、それによって久しぶりに連絡を取ったりすることがあったりしたのも事実です。でも、それがある時から自分は気がひけるようになり、その頃から、SNSで誕生日表示を消しました。

 

気がひけるようになった理油は、こうです。ある時から、誕生日で祝ってもらうたびに「自分は、まだ何も成していない」と思うようになってしまったのです。

誕生日を祝われること自体は、嬉しいのは事実です。わざわざ覚えていてくれたとか、誕生日プレゼントを選ぶ努力を、自分なんかのためにしてくれた、ということはとても嬉しいことです。ただ、同時に自分を焦らせられる感じもするようになりました。

リアルな生活の中で人を祝うタイミングがある時は、あまり深く考えず、心から祝うようにしています。これは信じてもらえないでしょうが、本当です。ただ、SNS上では祝うことは少なくともできなくなりました。祝われることも、返すことが表面的になってしまうと思うので、誕生日は引き続き表示してません。

 

SNSのあのお知らせが、来るたびに、自分の中で反骨心が顔を出すのです。正直に言うと、最初はあのお知らせが嫌いでした。

見るたびに、何かそれよりも祝うことがあるんじゃないか、と。誰かが、苦労して何かを作り上げた時、今までできないようなことができるようになった時、長年の労力が報われた時とかを祝うべきでは、と考えてしまうのです。だって、誕生日が祝われている人がいる横で、祝われもせず、必死で頑張り続けている人がきっといるはずなんですよ。とか、その理論を補強する正当化仮説が次々と湧き出てきます。

それを考えてしまうので、祝いたい気持ちがあってもできなくなりました。しかし、それは、祝うことがダメとかでは決してなく、それを祝わないことで自分自身のそれ以上に大切なものを強く意識できるという、ごく個人的なマインドコントロールのためのみが理由です。それに利用するようになったのです。本当に嫌な奴ですが、そこをあえて。

 

結果、こういうことを考えるようになって、実は、あのお知らせ機能が好きになりました。なぜなら、ほぼ毎日誰かしらの誕生日が来るので、私は毎日思い返すことができるのです。

 

「自分は、まだ何も成していない、頑張らなければ」と。

 

ただ、今はそこからメッセージを送るまで行かず、ここで処理ループは終了(break;)するのです。何分、未熟者なもので。多分、そこで並列処理をすることは簡単なことなのですが、祝わないことで発生するマイナス(誰も気にしていないことが分かりつつも感じる罪悪感)よりも、それを蓄積することで将来生み出せるだろうプラスを溜めたくなったのです。自分では、職業病の一種と考えています。

 

SNSさん、ありがとうございます。そこまで見越して、そのお知らせ機能を作ってくれた高尚さには脱帽です。笑

早く、この呪縛から解き放たれて、何も考えずに、お祝いを言えるような真っ当な人間になるために、今日からも必死で頑張ろうと思います。