アントレプレナーシップ(起業家精神)とは
起業して1年強が経ちました。この経過期間だけには何の価値もないと思っていますが、「起業」というものに感じたことを書き記しておこうと思います。
私は、中学2年生の時に、20年後に社長になっていることを目標に決めました。
もしかしたらその前からかもしれませんが、ありがたくも中学校で「20年後の夢」というのを書くきっかけがあり、明確に記憶に残っています。
そのきっかけは、他愛もないことでした。
当時、「お金がない」というドラマのエンディングが大好きで、あんな社長になりたいと憧れたがきっかけと記憶しています。今からするととても浅く、恥ずかしいレベルの思考ですが、それが残念ながら事実のようです。
そして、20年後の34歳になり独立をしました。そんなに綺麗なストーリーではなく、もう猶予がないというとこまで来て選択肢がなくなったというのが真実です。何れにしても目標通り、社長になりました。と言ってもスタートですが。
今から考えると、結果的に浅かろうが、とても良いきっかけを感じることができたことに感謝しつつ、そこに現れる決定的な自分自身にある危険因子も気づけるきっかけであったとも考えるようになりました。
その危険因子とは「虚栄心」です。
お金持ちになりたい、尊敬されたい、誰かにとって唯一無二の存在になりたい、という想い。おそらく当時いろんな劣等感を感じていた自分はそれらを覆す方法として「社長」という目標を考えたのだと思います。
私は、成功する社長像というのをこの20年間で追い続けました。いろんな本を読み、思考し、活躍されている社長とお話をさせて頂く機会やお仕事させて頂く機会を得て、徐々に、ぼんやりと私なりの理想像を固めてきました。
それを、一つの言葉で表すと、
「アントレプレナーシップ(起業家精神)」です。
アントレプレナーシップは、いろんな解釈がありますが、私は以下のように考えます。
「世の中をよくするために、自らが主体となって、解決策を模索し、新たな事業を開拓し、実施する精神」といったところでしょうか。
ただ、私自身は「起業家精神」の定義が完全に正しいかどうかは、どうでも良いと思っています。何が正しいと定義するのは非常に難しいです。それについて、ああだこうだ議論することは全く有益だと思えませんので、間違ってなければすべて正しいくらいに考えています。
そして、何が間違っているかを確認するのは、多くの場合、結構簡単です。
「起業家精神とは、"○○"の精神です」の"○○"に当てはめればいいのです。
例えば、「起業家精神とは、"お金持ちになりたい"精神です」は、誰もがおかしいと感じるでしょう。
お金を稼ぐことは決して悪いことではありません。
劣等感を感じることも、
悔しいと思うことも、
見返してやりたいと思うことも、
何かを成し遂げて評価されたいと思うことも、
決して悪いことではないと思います。
しかし、起業家精神では、
お金があろうとなかろうと、
評価されようとされまいと、
味方がいようといまいと、
世の中をよくするためにすべきことをするのです。
なぜ、独立するのか。
なぜ、サービスを創るのか。
なぜ、その仕事を受けるのか、または断るのか。
なぜ、その対価を得ようとするのか。
なぜ、上場を目指すのか、または目指さないのか。
なぜ、資金調達をするのか、融資を得るのか。
なぜ、社員を雇うのか、または雇わないのか。
なぜ、会社の環境をよくしようとするのか。
全ては、お金を稼ぐためでも、見栄をはるためでもありません。社会をよくするためです。そして、社会をよくするためにお金が必要になります。信頼を得るために評価されることも必要になるかもしれません。
ちょっとしたことかもしれませんが、このゴールが逆転した時に、いろいろ破綻すると考えます。よく考えれば、起業家のほとんどはそれがわかっているはずだと思いますが、ふと過ちをおかします。
気持ちは、起業家としてまだまだ未熟な今の私でも分かるつもりです。
時には事業の可能性を否定され続けながら、
または存在を無視され続けながら(無視する側はそう思っていないのですが・・・)、
サラリーマン時代に背負っていた信用されている企業の看板を外したギャップで感じる劣等感を感じ続けながら、
少しの失敗から一瞬で事業や会社が吹き飛ぶ恐怖と戦い続けながら、
多くの起業家は成功を信じて事業をしていると思います。
だから、
「ようやく認められる時が来た」
「そろそろ評価してもらいたい」
「もう楽になってもいいのではないか」
と思いたくなるのは当然なのではないでしょうか。
上述の通り、社長になりたいきっかけが不純な私も、例に漏れず、間違いを犯しそうになります。そのため、少し慣れないことをすること、またはしないことを決断するときは、以下の自問をします。
「それは、社会をよくするために必要なことか」
「それは、自分が見栄を張るための決断ではないか」
これを明らかに誤る決断をしたときが、起業家を引退したときだと考えます。
日本では「ベンチャー企業」や「第二創業期」と称する大きな会社があります。もちろん、そう称したい気持ちはよくわかりますし大事なことです。しかし、それが真実かどうかは、そこに起業家精神があるかどうかではないかと思っています。小さな会社であってもそれは同じです。小さいから「スタートアップ」「ベンチャー」というロジックは成り立ちません。
その判断は、社員であっても評価は難しいでしょう。
でも、明らかに違うことがわかる瞬間は、この旗をふる中心の経営者が、間違いの起業家精神を口にする時ではないかと思います。
「起業家精神とは、"○○"の精神である」
このフレーズが、真実を映してくれるのではないでしょうか。
いつか間違ってしまうかもしれない、いつかそういう人が経営陣にいることを正当化してしまっているかもしれない、そうなった時に正しい決断をできないことがすべてを終わらせることになる。そう思うのです。
間違った精神を持ってしまった瞬間に、誰であっても、どんなに優秀であっても、どんなに功績を残してきた人だとしても、その場に留まることを許されてはならない、それがベンチャー企業と称する会社の経営者だと思います。
私自身は、虚栄心に始まっていますので、起業という活動を通して感じたいろんな悔しさがなければ、これに本当の意味で気づけなかったのではないかと思っています。もし、サラリーマンのまま社長になってしまっていたら、排除されるべき側の経営者になっていたかもしれません。
そう考えると、今、生じる困難や壁は、すべてがとても有難いものに思えてくるのです。すべてを賭けているからこそ、その一つ一つの想いに真剣に向き合えます。
これが、私が感じ、体験した「起業」です。