12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

「たられば」は重要。でも、混ぜてはいけないものがあった。 ~独立して気づいたこと~

■「たられば」を重要と考える理由。
自分自身も含め、ほとんどすべての人が、できないことを言い訳で逃げようとする、というのは事実ではないでしょうか。何か大変な作業や業務をしている時、「あぁ、この情報があったらな」「こんな人が手伝ってくれたらな」「PCがもっとハイスペックだったらな」、と。
これっ「たられば思考」といって悪者扱いされることが多いですが、私はこの心理状態自体は決して否定するものでもないと思っています。

なぜなら、これっていわゆる、ニーズや自分自身に対するクエリであり、それをきっかけに、必要情報や必要リソースをそろえ、仕事を完遂させようとし、結果的には良い仕事になると思うのです。
「もっときれいな資料が作れたらな」→「もう少しくらいならきれいにできるんじゃないか」という具合に。
つまり、こういう「たられば」を多く考えられ、次にそれを集めるステップを踏める人(アクションにつなげられる人)は、すなわち、良い仕事をする人なんじゃないかと思います。最近、私は仕事をするときに、いつもこの心の声を聴くようにしています。

 

例えば、プログラミングしていて、「こんな繰り返し同じようなこと必要なのか?そういうプラグインがあったらいいな」と思えば、「あるんじゃないか、探してみよう」とネットで探し、見つけたり、なかったら、簡単なものを作って使いまわすことがあります。

このように「たられば」という言葉は一般的にはネガティブな印象が強いですが、「逃げたくなる」心理の浮上を利用して、多くの人がそう感じていることを理解し、ソリューションとしてサービスを提供したり、のきっかけになるということで言えば、ポジティブな言葉になると思うのです。

しかし、絶対に混ぜてはいけないものがあります。

 

■混ぜてはいけないもの。それは・・・ 

それは、・・・「他責」です。

 

「他の人が、やってくれたらな(やってくれないからできない)」という発想は超危険です。
この両者を混ぜた瞬間に、自分の目の前の仕事のコントロール権を失うのです。これがアウトプットとして出だすと、一気にソリューションを出せない人に早変わり。

 

たまに、この頻度が多い人がいませんか。コントロール権を早々に手放す人。私は独立したから、それに、良く気付くようになりました。
なぜ気づくようになったかというと、一人で事業を進めると、何も誰にも頼めないのです。そうすると、その自分から出ようとしていたこの負のアウトプットの頻度がよくわかるのです。
そして、客観的に、「あぁ、今までこんなに人を頼ってきたんだな」、と思います。

 

みなさんも、今まで、たまに不思議になることがあったのではないかと思います。「この人、もっと仕事できると思ったのにな、昔はもっとできたのにな、なぜだろう」という具合に。


事実、その人はある特定の分野ではこのストッパーはかからない(かからなかった)ことがあるようですが、その分野外になると途端にそのストッパーが出没するのです。


そして、この出没率は私の経験上、年齢と残念ながら相関してしまうようです。これは人間心理上、仕方がないことだと思います。本当に優秀な方ですら、そういう側面が出ることを思い出したからです。

なぜでしょうか。私は次のように考えました。

人間は、多くの経験や実績を積むと、確率論で多くの物事を対応できるようになります。その結果、確率の逆転現象が起きると、「異常」が発生したと捉えるのです。

だから、「何が異常なんだろう」と。この段階ですでに危険です。なぜなら、前提に「自分は間違っていないのに」思考が入りだすからです。
そして、見つかるのは、人による介在です。自然摂理は敵にできないし、前提と考えるよう訓練されるから当然ですね。

なので、疑わなくていいでしょう。この思考は普通なことなんです。だから、認識して対処すればいいと思うのです。

 

■どうやって対処する?
私が行き着いた答えのひとつは、成果を出すために、必要なものはすべてあるか、簡単に手に入る、と思うようにするということでした。
「こういう人がいたらな」→「探して見つからない」→「では、いると考えよう。どうやったら発揮してくれるだろう」という具合に。

「ない」と思って探し続けていても何もアウトプットされません。サラリーマンなら、良い材料になることが多いと思います。「じゃあ、しょうがないよね」という賛成多数で、無事、逃げられてしまいます。そして逃げている感覚からも逃げられます。w


特にあなたが実績をもっている、実力がある、能力が高いと認められている人ならなおさらです。

でも、本当の成果って、そういうことなんでしょうか?無かったからできませんでした、ではなく、無いなりのアウトプットを出すことでしょう。アウトプットゼロなら、売上ゼロ、給料ゼロ。それが本来の仕組みではないかと。

 

「ない」なら作ればいいし、同じものは作れなくても「代替品」を探せばいいのです。
そして、この決断のスピード(探したり求めるのをやめてアクションに切り替えるスピード)をあげていくことが結果、アウトプット量を多くしますし、同種の仕事を繰り返す度にその完成度は高くなります。
この考え方って、考えはしたものの、今から思うと、あまりサラリーマン時代は意識が至っていなかったなぁ、と。

 

■少し脱線して
ちなみに、世の中の「流行り思考」ってこの仕組みに似た悪いレールに乗っていることが多いと感じることがあります。

最近で言えば、「人工知能」。私も興味のある分野ですが。
すごく具体的に見つめている人も中にはいますが、多くの人が、まるで「ドラえもん」のように語ります。アクションに紐づかない「人工知能」を追う意味ないんじゃ?と思ってしまうこともあります。

過去にもこれが起きたので、人工知能はブームと言われてしまったのでしょう。
今回もこの乗り方を見ると、そうなってしまいそうな気がしなくもないですね。

これって、結局、「人工知能だったら」という「たられば」思考から、「Watsonがこういうのをやってくれたら」となり、その期待が行き着かないことがわかってしまうと、離れていくのでしょう。大きな問題は、アクションをしていないことです。「人工知能が出てきたら、こんな仕事なくなってしまうから」「人工知能に任せればいいから、やらなくていいよ」という。


もちろん、カスタマー側(サービスを受ける側)の思考はこういうものなんだと思います。だから、世の中にプロフェッショナルなサービスが求められ、消費が生まれる。

ただ、プロフェッショナルとして提供する側が、そういう思考で諦めるのはいかがなものかと。統計学がわからなければ勉強するか、数学を使ってなんとかするか、数学でなくても算数でなんとかしようとする、それができなければ自分なりのやり方で、目の前の問題に対処する、べきという。

 

と、思いっきり脱線しましたので、話を戻しましょう

 

■意識するようになって気づいた、「実は本当にあるし、自然と見つかる」ということ

そして、それぐらい考えていると、会う人会う人が、そういうものを持ってきてくれるような錯覚(なのか真実なのか)に出会いました。
シンクロニシティという神秘的な言葉で片づけることもできるのですし、そういう部分も少し信じていますが。(好きなので)

ただ、これをもう少し論理的に解くとすると、オークション的なものなのかな、と思っています。つまり、「最初から1万円以内でよいスーツを買いたい」とすると、「見つかりませんでした」という結果になります。
しかし、良いスーツを安い順に買う、と決断を変えると、12,500円のスーツが見つかります。妥協の産物といえばそれまででしょうが、その思考をすることで、本来すべきアクションに力を注げ、その時は、12500円で買うことを決めて、次に靴を探していた時に、たまたま、9980円のスーツを見つけることがあるのです。

これがある程度事実だとして、概念としては簡単ですが、仕事でこれをやれる人が意外にも少ないのです。どこかで、人のせいにして諦めたくなるようです。その方が圧倒的に楽なので。「スーツが見つからなかったので、会社に行きません。」みたいな。この例はさすがに通らないですけどね。w

 

■独立すると、とてもよい修行ができた


私も過去には気づかずにそういうことをしてしまっていたのかもしれません。
しかし、今は、すべてが自分に返ってきます。やらなければ、何も生まれないので。諦めるのも自由だし、小さなアウトプットを出すのも自由です。自由って本当に怖い。w

 

でも、これって、本当にいい修行だなぁ、と思うのです。
だから、これまで独立されていた人たちの仕事の執着心があんなにも高かったんだと、なんか妙に納得しました。

自分自身もこれが体に刷り込まれるように、今できるだけ多くの経験をして、デトックスをしたいと思います。