仕事の"プロフェッショナル"は偏差値60以上と考える
「プロフェッショナルとは」というのが少し話題になったりしていますが、
プロフェッショナルとは、どういう基準をいうのでしょうか?
単に、長い間やっていることではないはずです。
単に、数をこなしていることではないはずです。
お金をもらっていればプロで、もらっていなければプロでないというのも違うと思います。
それで生計を立てているからプロということでもないと思います。
もちろん、周りから見える「表見的なプロ」としてはそう見えるかもしれませんが、これは本質的ではありません。
そこで私は、偏差値60という基準を考えるという案を提唱します。
偏差値は、ご存知の方も多いと思いますが、平均を50とし、1シグマ(1標準偏差)を10で表現しています。正規分布に従うとすれば、つまり、偏差値60は上側確率なので、上位約15.8%に入るということになります。6.3人いるうちで1番になれる人です。
アウトプットは様々で評価しづらいので、偏差値の評価基準は、依頼者の期待値で考えると良いでしょう。
つまり、期待値が、偏差値60を超える、つまり、6、7人に頼んで得られない期待を超えられる人がプロだと思います。
また、プロフェッショナルとは意識の問題です。結果としては相手が決める問題です。
たまに、営業という仕事を10年しているから営業のプロ、と考える人がいますが、その概念でいくと、世の中プロだらけです。11才以上は全員「人生のプロ」、その親は「育児のプロ」、小学校、中学校+1年勉強している人は「勉強のプロ」。その他にもプロだらけです。という点から、やはりそのプロ基準はおかしいですよね。
それと同様に、単にやっていればプロフェッショナルになれるという意識ではなく、少し突き抜けた期待に応えられるという意識でやるべきなのだと思います。
その意識でいたら、成長をしなければと思わない理由はありません。勉強しなくて良いなんて考えは一切出てきません。資格をとっても実績をあげても一生安泰だなんてことは絶対にあり得ないのです。
偏差値60は、実際は相当難しいことです。少し頑張ったくらいでは普通は到達できません。だからこそ、いろんな工夫や、人がやらないことをやって到達しようという意欲がわくのではないでしょうか。
起業を甘くみるな、辛くみるな。
起業はそんなに甘くないと思います。楽をするとか、自由になるとかそんなことでやらない方がいいのです。
サラリーマンとして認められることと、起業で認められることは全然違うと思うのです。必要な優秀さが全然違うのです。
だから、そんな理由で、甘くみるな。
同時に、
起業はそんなに辛く(からく)ないと思います。相当の天才じゃないとやっていけないとか、自分にはできないとか、誰それにできないとかそんな理由でやめるべきではないのです。
サラリーマンとして認められることと、起業で認められることは全然違うと思うのです。必要な優秀さが全然違うのです。
だから、そんな理由で、辛くみるな。
どっちなんだ、と思われたでしょう。
そう言われたら強いて言えること、100%断言できることが2つだけあります。
1つは、やると決めた人には、得られるものが必ずある!ということです。
そして、
もう一つ、やってしまった人には、損するものが必ずある!ということです。
それが、起業だと思います。
・・・結局、何が言いたいかというと、
起業を辞める理由もなければ、する理由もない。ということです。それぐらい普通なのです。考えていた、損得勘定からくる、辞める理由とやる理由をまず忘れてください。
それでもやりたいか、やりたくないか、それだけなんだと思います。
以上です。
「検証していないことは、黒ではない。」
<「検証」>
何かをよくするためには「検証」をしなければなりません。元のものからよくなっているかを確かめるためです。検証することで、それが正しいかどうか(白か黒か)がわかるのです。
「検証」は考えることではありません。実施することです。もちろん全てのアイデアを「検証」することはできませんから、考えてスクリーニングする必要はあります。
しかし、1つも2つも「検証」できていないことは、良くしようと行動していていないことです。あなたが今、「検証」しているアイデアは何ですか?
<アイデアを出す障壁>
アイデアの価値というのは時に逆説的です。
つまり、すぐに多くの人に賛同を得られるようなアイデアは価値が低く、
「それのどこが?」と言われるくらいの方が価値が高いことが多々あります。
(価値が低いからといって、影響が小さいわけではありません。誰もが思いつくけど誰もやっていないなら、やることで価値が出ることもあります。)
最初の行動が起こし辛いですよね?
「そんな陳腐なアイデアを発言した者と思われたくないから」
「そんな雑なアイデアに時間を費やしたと言われたくないから」
周りには批判者がいます。あなたの近くの賢い人は「それが良いアイデアでない理由」をものの数秒で綺麗な論理を立てて説明し、時に過去の最もな事例を引き合いに出して、まくし立てるかもしれません。
これだけ聞くと、「私は誰に何を言われても大丈夫だ」と思うかもしれません。
でも、その批判者の中には、あなたが日頃から信頼し尊敬している人も含まれるのです。想像してみてください。
それでも、屈っさずに通せますか?それくらいの火薬は積んでおきましょう。
大好きな人も、賢い人も、実績と経験を持っている人も、信頼している人も、尊敬している人も、誰一人として神ではないのです。
そして、そのアイデアを思いついた背景やストーリーや知識が全く同じ人間も一人として存在しません。あなたは「あなた」なのです。
もちろん、
・モラルに反してはいけません。
・見ず知らずの他人に迷惑をかけてはいけません。
・近しい友人・知人に「さすがにこれ以上は協力できない」と言わせてはいけません。
・その考えうる限りの最良の結果が、自分を含む誰かを助けることにならないものなら、やる必要はありません。
しかし、これらを満たさないなら、なぜ、やらないのですか?逃げていませんか?
少なくとも、この記事を読んでいるということは、あなたの目は動き、頭は考える力があり、1日の数十分は自由に使えるのではないですか?
幸いなことに、お願いすれば協力してくれる仲間もいるのではないですか?
もっと幸いなことに、それに多少過熱気味になっても、明日死なない程度の余裕はあるのではないですか?
<検証できていないことを、頭ごなしに判断しない>
「検証していないことは、黒ではない」のです。
気になるなら、少しの勇気でできるなら、黒であることを確かめましょう。
アインシュタインも言っています。
「情報は知識にあらず」
こうするといいらしい、とか、こうするとダメらしいとか、そんな情報は知識ではないのです。自分がやってみて、知識となるのです。
あなたは情報で満足ですか?知識を得たいですか?
情報はたくさん持っているが、知識を持っていない人はたくさんいます。
知識をたくさん持っているが、新しい知識を得ようとしていない人もたくさんいます。
知識も情報もほとんど持っていないが、新しい知識を得ることに向き合っている人もいます。
決して惑わされないでください。その人は検証していますか?
「検証していないことは、黒ではない」のです。
<アイデアに出会った責任と役割>
そして、あなたはそのアイデアに出会ってしまったのです。それが、少ないかもしれないし、多いかもしれないけどもしかしたら将来、人を助ける可能性があるのです。
時間がない、と言われるかもしれません。しかし、真実を言いましょう。
あなたが今、人の指示やルールの中でやっている他の重要な仕事は99.9%以上の確率で他の人に代わっても支障はありません。とても残念ではありますが。
でも、そのアイデアはどうでしょうか?
思いついたあなたがやらなければ、誰もやらないのではないですか?
やったとしても何年か後になるのではないですか?
その何年かの間、助けられるべきだった人はどうなるのですか?
これは日々のちょっとしたアイデアかもしれません。こうしたら会社がよくなるかも、とか。それが大きいテーマなら「起業」という選択肢かもしれません。
他の人がやらないようなこと、やっていないこと。
でもやったほうが良いんじゃないかな、と思ったこと。
それが人を助けることになるかもしれないこと。
やりましょう。
アインシュタインは、こんなことも言っています。
「失敗したことがない人間というのは、新しいことに挑戦したことのない人間だ。成功者になるためではなく、価値のある者になるために努力せよ。」
価値のある者になること、それが自分を生きる、ということなのではないですか?
<諦めるというのは、エゴイズム?>
100回目くらいのチャレンジで白(ホームラン)に出会えたら、あなたはきっと天才でしょう。
1000回目くらいで白に出会えたら、あなたはとても運が良いのでしょう。
10000回目くらいで白に出会えなかったら、そろそろ諦めても良いかもしれないですね。
そのくらいで考えていいのです。
3回くらいやって黒が続いたことで「もうダメだ」って言ってませんか・・・?
30回くらいやって、「やり尽くした」って言ってませんか・・・?
進めなくなったらゲームオーバーですけど、まだ進めるんではないですか?
良いアイデアと思うなら、勝手に諦めるのは、単なるあなたのエゴイズムかもしれません。楽をしたい、もっと簡単なことをしたい、と自分を甘やかす行為ではないですか?
繰り返しますが、あなたはそのアイデアに出会ったのです。
とても幸いなことに、あなたにはたっぷり時間があります。あなたが何歳であれ。
若い人には失敗する時間がたくさんあります。年を重ねている人には、これまでの経験と、加えてまだまだ十分な時間があるのです。
ほとんどの人は、明日死ぬわけではありません。つまり、24時間はあなたのものです。24時間あればいろんなことが検証できます。
そしておそらく1年後も生きているでしょう。つまり、8,760時間もあなたのものです。
さらにこの何倍も、あなたには与えられているのではないでしょうか?
その使い道の意思決定者は、「あなた」なのです。
良い決断をしましょう。
失敗だらけ
ふと思った。失敗を書き出してみよう。
いつからだろう。失敗というのが当たり前の感覚になったのは。
サラリーマンの時?いや、そうでないように思う。
サラリーマン当時は失敗のことを「まだうまく行っていないこと」と、呼んでいた気がする。記憶が定かではないが。
本田宗一郎氏の有名な言葉はかなり昔から好きだった。「成功は99%の失敗に支えられた1%だ」でも、実践できていたか?いや、絶対にできていない。
失敗から逃げていた。ただ、ひたすら。逃げるのは簡単だ、考えなければ終わりなのだから。
当たり前になったのは、何をやってもうまくいかないことが普通になった時に感じられるようになったのだと思う。サラリーマンは評価してもらえる。善意の取り組みや、苦労をしていることを否定できる人なんて、そうそういない。厳しいことを言ってくれる人も幸いいたが、マイナスしか言われないということは経験してこなかった。
しかし、独立すると事業がうまくいく以外は全て赤点だ。 失敗のつぎにあるのは失敗でその次も、その次も失敗である確率が、天文学的に高い。
ここ1、2年の自分の失敗を分類して列挙すると以下のようになるだろう。
・伝えることと伝わることが同じだと思っていた
「あいうえお」といえば「あいうえお」と伝わると思ってしまっていた
伝わることは決して聞くことではない。解釈だ。そこが全くわかってなかった。
・なんども見積もりを破った。
これは1日でできる。そう行って、1日で8割作り、残りの2割に3日かける。
そしてその時に的確に言い訳をつけてきた。「いや、これは結局やることになるんだからアドオンだ」この失敗は数えきれない。
・自分のやりたいことは、みんなやりたいことだと思っていた
自分がやりたいこと、これができたら面白い、と思うことは、当然みんなそう思っていると思っていた。しかし、現実は違う。「あなたほど暇じゃないんです」ということだった。
・できないことができるようになることを成長だと思っていた
全く違った。それは成長ではなく、できないことができるようになっただけだった。
成長は、それを結果に繋げられる力を身につけた時だった。
・好奇心という名の下に、寄り道をして著しく効率を悪くする病気に気づいていなかった。これは、もはや治る気配はない。もう、諦めた。
・自分が経験していない、体感していないのに、人の話を信じてばかりだった
自分自身が苦労して体験しなければならないことを、結果だけ知れればスキップできるものだと思っていた。スキップするのはプロセスだけでなく、"体験"だ。つまり、知っただけの結果は全然身につかない。
・人にとって難しく、自分にとって簡単なことをやることを経済合理性だと思っていた。
前提として、その行動に意味(その人にとって喜ばしいこと)がなければならなかった。
・みんなに気に入られようとしていた
万人が望む理想像は何だろうという前提を、見直すことを忘れていた。
万人を助けることはできない。1人を助けられるだけでも、どんなにすごいことか。
・自分はアイデアマンだと思っていた
実際には、多くの人にとって奇妙なガラクタ(=ゴミ)を作るのが得意だった。
・今も全く治っていないのに、ここで過去形でさも治ったかのように失敗談を書いていること
他にもたくさんあるが、これくらいにしておこう。
とにかく、失敗だらけなのです。
そして、ご存知の通り(お察しの通り?)、私は少なくとも成功はしていない。つまり、100%の失敗を継続中だ。パーフェクトということだ。すごい。
もう、落ち込むことすら面倒臭くなった。(はず)いや落ち込むけど。
「退場」を宣告される以外、もうこの失敗は積み重ねられていくしかないのです。そしてそれも慣れると、悪くないものなのです。ちょっと落ち込むけども。
もう、失敗しか自分に教えてくれるものはないのだから。
執念を持てない仕事なんて、やめてしまえ。
儲かりそうとか、
ちょっと得意だとか、
ちょっとやりたいとか、
あの人よりうまくやれるとか、
スキルや資本や何かを持ってるとか、
それしかできないからしょうがないよね、
とか、そういうのは、一旦、どうでもいい。
そこに執念を持てないなら、早めにやめてしまえ。
厳密にいうと、執念を持てているかではなく、執念を持つ気があるかどうかだ。持てる可能性があるうちは続けて良い。
憧れでも、意欲でも、理想でもなく、「執念」だ。
固執して、へばりついて、それでもなんとかしてやるという観念だ。
殴られようが、ツバを吐かれようが、惨めに思われようが、それに対抗できる覚悟だ。
逆に、執念のない仕事は、競争力がほとんどない、と思った方がいい。
それがすごいとかかっこいいとかできるとか、自分に合ってるとか。
そんなの本当にどうでもいい。
執念を持てるのか。それだけだ。
なぜなら、やりたくて、やるべきで、誰もやっていないことをやろうとすると3回くらい、いや5回、10回くらい壁にぶち当たるから。
普通の意欲なら、2回目くらいで嫌になる。自分には向いてないと思い出す。人に頼りたくなる。それが10回くる。執念があっても足りないくらい。
いやいや、執念なんて持てない、と思うかもしれない。
いま持ててないことに、何ら恥じる必要はない。
恥じるべきだとすれば、その可能性を探していないことだ。
実は探すのは、方法的には、そんな難しくはない。最も簡単な方法は、環境を作ること。人によってやり方は違う。
ある人にとっては、宣言することだけかもしれないし、ある人にとっては独立かもしれない。
つまり、退路を立つと、執念は見つけやすい、と思う。
「執念」
人間にあって、人工知能にないもの。
圧倒的に自分より賢い人、資本力のある人を負かす唯一の武器。
誰もが、手に入れる覚悟さえ持てば、手に入れられる可能性があるもの。
大事にしよう。
*注意:これは、仕事で何かしら優位に立ちたいと思う人だけに適用できる論理である。持たないといけないというわけではない。でも、稼げるようになりたいとか、貢献したいとかそういう風に思うなら、必要な考え方だと思う。
良いアイデアと悪いアイデアとの付き合い方
最近、よく感じること。
良いアイデアの多くは、1ヶ月たち2ヶ月経つと、良いものでなくなる。
悪いアイデアの一部は、1ヶ月叩き、2ヶ月叩くと、良いアイデアになっていることがある。
ざっくり、1ヶ月に1つは良いアイデアと思うものを思いつく。と思う。
その中には単に良いアイデアであって、今すぐやること、自分がやることではないことも含まれる。
悪いアイデアは、やらざるを得ない事から始まる事が多い。ほとんどの場合、自ら選択できない。良いアイデアを選んでしまうから。
こんな確率を一時、考えてもいなかった。良いアイデアは良いアイデアだと思っていた。そうすると、良いアイデアの良いものである確率しか、良いものにならない。しかし、今はその確率に悪い→良いが足される気がしている。
これに気づくだけで、このパラダイムの罠から一歩抜け出せる。
良いアイデアは頭のいい人たちにどんどん話して反応を見て、悪いアイデアはどんどん叩いて、自分の反応を見る。
良いアイデアの多くは周りの人にとっての悪いアイデアだから、だいたいすぐわかる。自分が信頼する人に聞くから、これは悪いよって言ってもらうとすぐ誤った思いいれを解ける。周りにとってもっと良いアイデアだったら、その人に譲ればいい。そんな小さなコミュニティで比較経済がくずれるものは自分がやるべきではない。それは少し先に悪くなるアイデアだから。
そういう風に考えるようにしている。
最初は、これは気が楽だ!と思った。でも最近、良いアイデアが出てくると何というかちょっとだけ落ち込む。あーまたか、くらいのだけど。そのうち9割くらいが、落とされていくのだから。
でも、悪いアイデアには確実に目を向けられるようになった気がする。
果たしてこの良いアイデアも、悪くなる方のものなのかどうか。楽しみだ。
仕事で焦らない準備をするための、魔法の言葉。
2018年になった。
この1年も悔いを残さないために、仕事の進め方を書いておこうと思う。
<焦った時には、もう遅い>
結果が出ないと焦る。
焦ると、アウトプットがチープになる。
そして、結果がさらに出ない。
これは、わかっていても抜けられない、"焦りのループ"だ。
意識が高い人ほど、焦る。
できるかできないかもしれないことに挑戦していて、結果が出ないかもしれないことを選ぶから。
そして、真面目な人ほど焦る。
人に迷惑をかけているとか、人に不満を感じさせてしまっているとか、考えてしまうから。
焦ることは、悪くない。
ただ、重要なのは、「焦った時にはもう遅い」ということだ。
もう、その時点で、
自分の準備が足りてなかった。
自分のスキルが足りてなかった。
ということだ。悔しいけど、諦めよう。
ただ、諦める、というのは、「もうどうでもいいや」となれということではない。
スイッチを変える必要がある、ということだ。
もう踏んでいるフルアクセルをさらに踏む方法以外での解決策を探し始めるスイッチだ。エンジンはそのまま動かすが、着地点を変えたり、人を頼ったり、違う行動を行うスイッチを入れる。
最終的に需要なのは、本当にフルアクセルで動かしていたかどうかが重要なのだ。
フルで動かしていたとしたら、結果が出なくても、結果を出す力は確実に上がっている。だから次に同じことができた時の結果を出せる確率は高くなる。
<焦ることを避ける方法>
そもそも焦らない方がいい。
そのために、焦ることを避ける良い方法がある。
それは、他の誰かよりも、「自分が最大のプレッシャー」になることだ。
例えば、他の誰かがいう期限よりも自分がかけるプレッシャーの方が高い状態を作る。そんなイメージだ。
でも誰かより大きいプレッシャーというのは曖昧で、想像で設定すると時に外すこともある。
それを簡単にチェックできる魔法の言葉がある。
それは、「日本一、世界一の」という枕詞だ。これをつければ、大抵、最大になる。
今の仕事を同じリソース(資金、リソース、時間、能力)で、日本一、世界一のゴールを決めてそれを自分のプレッシャーにすることだ。(もちろん、リソースとか能力はこちらの問題なので、前提として、それを理解してもらっている必要はあるが)
これができれば、人に焦らせられる前に、自分が焦らせていることになる。そして自分が焦らせている状況を、人は焦るとは捉えないようだ。
「高い目標を掲げている。」という。つまりポジティブに捉えられるのだ。
そして、結果が出なくても、多くの場合、他者の合格ラインに届いていることは多いし、それでも届いていなくても、それこそ、次の同じ事象の結果創出力確率は必ず高くなる。
一方、こういう考え方をしていると、簡単な仕事を難しくしてしまうという副作用もある。なんでも世界一で考えてしまうから。
だから、自分が納得する結果なんて、ずーっと、出ないということも普通になってしまう。その覚悟は必要かもしれない。
常に「また、できなかったな」「能力不足だ」と思うことになるし、自分を「ホラ吹き」とすら思えてくる。
でも、それでいい。それぐらいでいれば、周りの人が慰めてくれるから、自分自身で慰める必要はなくなる。
できる能力がないのなら、目標を下げれば、と思う人もいるかもしれないが、どっちがいいかというと、できる方がいいに決まってる。
だから、目標を下げるのではなく、能力を上げることにフォーカスする。そのための最良の選択肢ということだ。能力を上げるには時間がかかる。当然、周りの人はそれを待ってはくれない。でも、いつか、その能力が追いつく日がくればいい。
本当の結果は最後にバンっと出ればいいのだから。
ゴッホみたいに死んだ後にバンっと結果が出ることもあるんだから。
本当に大事なのはその時にフルアクセルだったかどうかだ。それでしかない。