12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

「タイミング、こじ付け、承認、監禁」の4つで、やる気を持続させる秘訣!

「やる気があれば、なんでもできる。」


そう思ったことはないだろうか。

私は、これをいつも感じている。

 

ここを科学できれば、

多くの人が、生産性を上げ、より豊かで充実した人生を過ごせると思い、

そのメカニズムを解明してみようと思った。

 

*注意:ちなみに私は心理学などを専門的に勉強した事はありません。好きでそういう本はよく読みますが、ただの素人の考察です。ご参考までにお読みください。

 

(1) 「良いやる気」は好奇心から来る!
実際、やる気がある時(興奮状態)は、ない時よりも何倍も難しいことをこなせる。何倍も早く進められる。

 

ただ、単なる「やる気」ではダメだ。

何かを「やらなければならない」と言っている人を「やる気がある」と表現することがあるが、そこには「良いやる気」と「(そうでない)やる気」がある。


例えば、誰かからやってくれとお願いされ、
しょうがなくやっているというのは(多くの人にとって仕事がこれだと思うが)
ここでいう「良いやる気」ではない。

 

例えば、定時になったら、帰りたくなる、やめたくなる。
ついついやってる途中にスマホをながら見したくなる。
心地よい疲れではなく、本当に疲れたと感じる。

これを起こしている場合のやる気は、「良いやる気」ではない。

 

では、「良いやる気」とは何なのか。

それはズバリ、「その対象に好奇心を持つこと」だ。

体の細胞の1つ1つが、「それをやりたい!」と興奮し、

楽しくてしょうがない状態を作っているのが「良いやる気」である。

そのためには、外からではなく、内から来る「好奇心」が必要なのだ。

 

(2) 好奇心発生のメカニズム


考えてみると「好奇心」とは、なかなか捉えづらいものである。

「興味」と行ったらそれまでだが、「興味」はなぜ引き起こされるのか。


そして持続しない「興味」ではなく、「好奇心」は一定期間持続する。

それはなぜか。

 

 

このメカニズムを私は経験則に基づき、以下のように定義した。

「好奇心が起きる時には、以下4つの必要条件が作動している」、と考える。

 

<必要条件>
①新しい情報に接した状態であること
②その情報になんらかのアハ体験を起こしていること
③それを追求することで、自身の達成感を得られる情報であること
④その追求による達成が、可能であると信じれる時

 

例えば、ゲームは好奇心を駆り立てる象徴であろう。

なので、何らかのゲームに接した時に好奇心が沸き起こる仕組みを解明してみよう。


①初めてそのゲームの仕組みを知る
②「なるほど、そういうことか」と、仕組みが脳内にストンと落ちる(アハ体験)
③そのゲームを進める、またはクリアすると、以下が得られると感じる
 ・友達に自慢できる
 ・成し遂げた感が得られる
 ・欲しかったものが手に入る(または疑似体験できる)
④「これを、こう進めれば自分でもいけそう」と感じる

これで、好奇心が成立する。


この好奇心が続く限り、例えば、3日間徹夜してゲームをやり続けると言う異常なことまで可能になるのだ。

 

(3) 好奇心の阻害要因
ここまで分解すれば、好奇心の阻害要因は、簡単にあげられる。
それぞれを裏返しにするだけだからだ。

①自分にとって「新しい」と感じられなくなる時
②「なるほど感」がなくなる時
③得られると思っていたゴールが得られないと思う
④「自分にはムリ」と思う

 

起業家は、強い好奇心を持つ人が多い。
その「起業家」には以下のような共通の要素があったりするが、
・強烈な自身のストーリーと紐づけている人が多い
・思い込みが強い自信家が多い

 

これらは、好奇心の阻害要因の抑制に繋がっているというロジックで説明できる。


自身の強烈な体験、例えば、何かで失敗して一文無しになって、とか、
誰かに裏切られて大変な思いをして、とか、これが強ければ強いほど
これを解決する手段に対して「新しさ」をずっと感じ、

ちょっとした解決策も「なるほど感」を持続させられる。


そして、思い込みが強いので、「自分にはムリ」なんて考えたこともない。

自分にしかできないとさえ思い込んでいる。たとえ、人に笑われても。

 

つまり、起業家の素質は、どんな理由でもよく、「好奇心の寿命を長くできる人」なのではないだろうか。

 

(4) 「好奇心」をうまく使う方法。

さて、いよいよ、やる気を持続させる秘訣を公開しよう。

それは言うまでもなく、「好奇心」を持続させることにある。

そして、その方法に以下の4つが効果的ではないかと考えている。

 

まずは、「タイミング」だ。

好奇心は、長続きしない、と思った方が良い。
例えば、今日、「これをやりたい!」と強烈に思ったものを、明日同じレベルで思えないかもしれないのだ。
当然、強ければ強いほど、集中力もパワーも忍耐力も全てが高い。

だから、タイミングを活かせ。

本当に重要な好奇心なら、最悪約束を断ってでも、「今」やるべきかもしれない。

 

次に、「(ストーリーの)こじ付け」だ。
「自分にはムリ」と思わないように、先に予防注射を打っておく方法である。
例えば、これまで自分が行ってきた経験を、掛け合わせていき、1万人に1人のスキルを見つけ出しておくという方法は有効である。

具体的には、統計学ができる人、マーケティングができる人、システム開発ができる人はそれぞれ世の中、無数に存在するだろう。しかし、統計学×マーケティング×システム開発とするとどうだろう。一つ一つは大したレベル出なかったとしても。


おそらく、日本人をランダムサンプリングした時に、1万人に1人も見つからないのではないだろうか。

こうして、自分がまさにその問題に当たれる人間であることを、無理やりこじ付けてストーリーを作る。

さらに、これまでの人生が、まさにそれをやるべきだった理由づけとして結びつけてストーリーを強化する。

例えば、「文系なのに小学生から算数が得意だった=>統計学を学ぶよう、神様に仕組まれ、マーケティングに携われるよう、たまたま"化学"という教科が嫌いになって、文系の流れに乗せられたのではないか、いや絶対にそうだ、そうに違いない。」という具合である。

 

そして、「(人からの)承認(を得ること)」だ。
周りの人に、これは「あなたらしいこと」「あなたにしかできない」感を助長してもらうのだ。これを得ることには2つ意味がある。
1つは、「自分にはムリ」にならないため、そう思った時にその人の顔が浮かんで静止してくれること。
もう1つは、話の中でシミュレーションができてしまうことで、達成できるものに対する疑いを持ちづらくなる。
あまりにおかしい論理だと、周りの人が突っ込むだろう。でもそんなこともなく、周りの人が承認してくれると、その時点で、複数人の頭で共通して成り立つ。

ポイントは、言うまでもないが「承認してくれるだろう人を選ぶ」ことだ。目的は承認だ。否定によるロジック固めではない。

 

最後に、「(自己)監禁」だ。
これは、それを考えるしかなくす方法だ。

つまり、それが自分の中の課題優先順位1位になるようにすることだ。
これにより、他のより「新しい」情報から自分を隔離できる。

 

大きな話で言えば、独立して起業だし、小さな話で言えば、自分に禁止事項を作る。

例えば、月曜日の夜は外出してはならない、でもいいし、ゴルフは絶対にやらない(ハマりそうだから)でもいい。「欲しがりません、勝つまでは。」の精神だ。

ちなみに、大企業が新規事業がうまくいきづらいのは、この「監禁」ができないからだと思う。なんでもできるが故に、その好奇心を閉じ込められないのだ。

 

いかがだろうか。
「タイミング」、「こじ付け」、「承認」、「監禁」で、

好奇心を確固たるものにすれば、持続的なやる気を手にすることができ、

そのやりたいことが生産的に、かつ、パワフルにやり遂げられるのではないだろうか。

不器用である事実から逃げてきた。それをやめた時、、、

不器用であるのに、器用ぶると、もっとおかしくなる。


周りにそう言う人がいると、すぐに気にくせに、自分がそう言う行動をしていることには気づかない。

 

白状する。自分は不器用な人間だ。ご存知の方もそうでない方も。

(いや、そんなの知ってたよ、と言われると嬉しいような恥ずかしいような。)

 

でも、信じて欲しい。

騙そうとしたわけではない。

世の中の不器用な人たちの代弁としても。

 


「できないことがあれば、必死でできるようになりたい」とそう考えていただけだ。

 

それが、少し時間が経つと

「必死でできるように"みせ"たい」にすり替わっていて、自分でも気づかない。


「あれ、いつからこんな言い方していたんだっけ?」と思うことがある。

 

正直、褒められるのは嬉しい。嫌な気はしない。
けなされるのは、嫌だ。いい気はしない。

 

そんな当たり前の感情ベクトルを忘れると、こういう風にぶれるのだと思う。

 

でも、最近、気づいた。

そもそも不器用であることをどこかで否定するから、流されるんだ、ということに。

 

考えてみた。

 

不器用を器用に見せる人を見て、すごい嫌な気がするのに、
不器用をさらけ出している人を見ると、むしろ好感を持てるではないか。なんと。

 

それは、なんと、器用な人が器用にしているところを見るよりも、はるかに、だ。

 

???

 

つまり、器用より不器用な方がいいってことじゃ・・・。

そう考えると楽になった。単純な人間だ。

 

「不器用さを誇れ。」

 

だから、最近は思ったことはできるだけやるようにしている。

返信しなくてもいいメールに返信して鬱陶しさを存分に出し、
わざわざ言わなくていいことを言って、煙たがられてるだろう。

 

そういうのをわかりつつ、心の中で「すいません、不器用なんで」と呟いて忘れる。なんと卑怯な。

 

でも、誇れることは、1つも嘘がないこと。
言いたいから言ってるし、したいから行動してる。

自分がそうされたいこと、それをする。

 

器用になろうとしてた時は、

器用にしようとしない人の行動にイライラしたけど、

それが随分なくなった気がする。

 

その人はそれが得意じゃないし、好きじゃない、それだけなんだとわかったから。

 

本当に、共感したり、同じことを考えている人は、不器用な行動で見せてくれる。

 

ちょっとおかしいくらい反応したり、

ワントーン高かったり、

不必要な大声だったり。

 

圧倒されるくらい、

行動が早かったり、しかも早すぎたり。

 

不器用は、不器用を見つけ、満足する。嬉しくなる。

 

それでいいじゃないか。
結局、それでも人は成長する、しかもねじれが無いから、むしろ速いとさえ思う。

 

不器用は不器用らしくあれ。そして誇れ。

山場を超えたら山場がある。山場から逃げたら山場がある。

正念場だ、山場だと思うことがある。
これをなんとか切り抜けたら、、、山場がある。

 

でも、その山は以前よりも1%傾斜が緩やかに見える。

 

もちろん、錯覚だ。

 

反対に、目の前の山場から逃げれば、そんな大きな山場に合わなくなる。

でも、10%傾斜がきつく見える。

 

もちろん、錯覚だ。

 

ある時、平坦な山場を登っている人がヒィヒィ言っている傍で、

絶壁を登っている人が笑いながら冗談を言っている。

 

そういうものなんじゃないかな。

 

目の前の山場は決して楽しいだけじゃないけれど、

絶壁を笑って登れるようになった時から遡ると、総じて楽しいストーリーの一部になる。

 

もちろん、逃げてはいけない訳ではない。

 

でも、3回「もうダメだ」と絶望するまで挑戦する、というルールを設けてみる。

そうしたら、大体登れてしまう。

 

そんな気がする。

 

そして、今は登れない山も、数ヶ月後、数年後には登れるようになっている。

そう考えての逃げるは、一旦離れるという意味だ。

 

山場を抜けたら山場がある、山場から逃げたら山場がある。

前者はワクワクするけど、後者はビクビクする。

 

それが人生なのかもしれない。

 

と、システム開発をしているとよく思う。

あなたに起きていることは、すべて正しい。

(1) これまで、天職ばかりと巡り会えた!

思い返せば、これまで、天職以外の仕事をしたことがない。と思っている。

 

すごく恵まれている、と思う。

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こういうことを、いつも公言しているので、こう言われたことがある。

「あなたは天職だからいいけど、私にとっては違うんです。」と。

「あぁ、そうなのか」、と思った。

「こんな楽しい仕事、みんな天職だと思っている」とどこかで思っていたから。

すいません。

 

ただ、その巡り合い方を考えると、奇跡だと思えてくる。

就活で有名な会社に落とされ続けて、行き着いた先に、天職と巡り会った。

転職活動で有名でイケている会社に落とされて、その先に天職と巡り会った。

 天職×天職の延長で起業したので、今は天職の中の天職。

 

つまり、ここから得られる教訓としては以下だ。

 

 誰かに不合格にされたら、喜べ。誰かにあしらわれたら、喜べ。

 きっと、その先にあなたにとっての最良が、ある。

 その誰かはあなたにとって最良ではなかったのだ。

 

 「あなたに起きていることは、すべて正しい。」

 

(2) その理由、というか方法。

タネを明かそう。

 

自分は「ただ運が良かった」と言っている訳ではない。

 

「天職というけれど、もっと合っていたものがあるんじゃない?」と思ってしまう人もいるだろう。その通り、答えなんてわからない。何をやっていても天職、運命に基づく経験を得られた、ということもできるし、「最悪だった」「間違えた」「人生の中で無駄な時間を過ごした」と考えることも、我々個人の自由なのだ。

 

多少、嫌な仕事だったとしても、天職にしてしまえ。そうすれば学べることは増える。

無理があると思ったら、「天職だ」といってしまえ。理由は後付けでもいい。

そうすれば、本当に天職になるものだ。

 

これを繰り返すと、

 

どんな不遇も

どんな報われないことも、

どんな逆境も、

自分にとって正しいこと(プラスになること、起きるべきこと)になるのだ。

 

これまで経験した仕事のすべてが楽しかったと思っている訳ではない。

喧嘩もしたし、イライラもしたし、能力不足も感じたし。

でも、どんな仕事も、絶対に1つくらいは面白いところがある。それにフォーカスして広げれば面白くなるのだ。

 

例えば、人に頼まれてコピーを撮り続ける仕事があったとしよう。これ自体は何も面白くないだろう。

 

でも、少し依頼者を驚かせてみるとしよう。

・相手の想像を超える、速いスピードで提出してみる

・相手の次の作業を先回りしてみる (例えば、言われていないが、ホッチキスと一緒に渡す、またはとめておくなど)

・3台のコピー機を並列で稼働させる方法を編み出してみる

 

こんなことを1つ入れるだけで、楽しくなるのだ。

そして、その内容に驚かれたら「コピー作業は、自分の天職ですから」と言えば良い。

 

(3) つまり、自己暗示。ってこと

「最悪だ、不運だ」と言って、愚痴を言ってもプラスは1つもない。

「最高だ、運が良すぎる」と言っても、マイナスは何1つない。

 

すべての事象を、運が良いこととして捉える。自己暗示する。そういう方法だ。

 

マイナスがなくてプラスがあるかもしれない、

こんな簡単で誰でも使える魔法を、世の中の80%以上の人が使っていない。

 

もったいない。

 

 

(4) 自己暗示のトレーニン

 

思い出してみよう。

最近、どんな嫌なことがあったか。

最近、どんな失敗をしたか。

最近、どんなイライラをしたか。

 

そして、肯定しよう。

それは、あなたが○○を学ぶための機会だったんだ。

これは、あなたが逆転のストーリーを作るための導入でしかなかったんだ。

これは、あなたが発奮するための十分な材料になった。

これは、あなたがやりたくてできなかったことに、開き直って向かうきっかけになる。

 

そうすると、もっと強烈なストーリーだったらより良かったな、と思ったりすることもあるだろう。ここまで思えれば、あなたの弱点は完全に消えている。

 

これを続けているとクセになり、習慣化する。

 

最近は、嫌な予感がする場所ほど、得られるものが多い気がしている。

例えば、人前で話すことに億劫になったりするときなど、多分、何かとてつもないリターンがある、と思えるようになるのだ。

 

 

「あなたに起きていることは、すべて正しい。」

そう考えれば、すべてがプラスになり、自分ごと化でき、チャンスに巡り会える。

 

私は、そう思う。

起業家と、事業家と、投資家。

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起業家は、やっぱりすごい。
起業家は、熱い。
起業家には、いつも魂を揺さぶられる。

 

自分もそんな起業家に思われるようになりたいし、一生そうありたい。

 

すごい人には、色々いる。

起業家だけでなく、事業家(ここでは人が起こした事業を育てる人)と投資家がいる。


それぞれ、優劣をつけられるものではないが、違いがあると思う。

 

・"アイデア"の可能性を聞かれた時、
起業家は、あらゆる可能性を検証し尽くすまで、可能性がないとは言わない。
投資家は、あらゆる可能性を失敗しない理論を立てるまで、可能性があるとは言わない。
事業家は、過去の経験に即して計算し、その可能性を答える。事業の成功率からして、当然、シビアな回答が多くなる。

 

・"アイデア"をやりませんか?と提案された時、
起業家は、やりたいかやりたくないかで答える。想いを、命をかけられるかどうか。
事業家は、儲かるか儲からないかで答える。マネタイズできるかどうか。
投資家は、やる人がいればお金を出すと答える。

 

これは、やっていることでの分類ではない。会社を立てることは、起業家の必要条件でも十分条件でもない。

 

起業家に見えて、起業家の人はいる。

起業家に見えて、事業家の人がいる。

事業家に見えて、起業家の人がいる。

起業家に見えて、投資家の人がいる。

 

自分は、どう見られても、起業家でありたい。死ぬまで。

 

そう思った。

実はプロセスこそ、ゴールだった

誰しも「手段を目的化するな」ということを聞いたり、発言したりしたことがあるだろう。

 

これは即ち、人間がDNAレベルで「手段を目的化するクセ」を持っているから発せられる言葉だと言えよう。

 

この「手段を目的化するな」というのは正論である。ビジネスの現場においては、このような姿勢正しによって、強烈に目的を思い出すツールとしては、何も間違っていない。

 

しかし、ここでは「手段目的化する」ことを否定できないということを考えて見たい。

 

 

どういうことだろうか。

 

例えば、子育てで考えてみよう。

子育てのゴールは?と考えると非常に難しいが、多くの人は「立派な大人に育てること」みたいなものを考えるだろうと思う。これを仮にゴールとしよう。

 

その目的を達成するには、例えば「感受性が豊かな人間になってほしい」→「一緒に遊んで、一喜一憂して、悔しい思いを感じさせて、その感情と向き合うこと」を体験させたい、とする。これはゴールからすると手段である。

 

手段を目的化しないというのを徹底すると、「立派な大人になっているか、それにつながっているかどうか」を常に考えることになる。これはあまりにも難しい。

その一瞬一瞬に没頭して楽しんではいけないことになる。ゴールにつながっているか曖昧なものは選択できないことになる。

 

このことから、手段もある程度は、目的化しなければならないということがわかる。

また、手段はゴールに向かっての過程(プロセス)と言い換えることもできる。

 

別の例でも考えてみよう。

ビジネスで成功したい、お金持ちになりたいというゴールを描いたとする。手段(プロセス)を目的化しなければ、ゴールさえ達成できれば、プロセスはなんでもいいことになる。

 

これは、本当にそうだろうか。

もし、お金持ちになるために、人を裏切らなければならないとしたら、多くの人を傷つけなければならないとしたら、それを実行することがその人にとって良いことなのだろうか。一部のサイコパスと言われるタイプの人を除き、多くの方はそれを望まないのではないだろうか。

 

つまり、多くの人にとって、ゴールのために、どういうプロセスを経るかがとても重要であると言えるのだ。

 

 

これは、なぜなのだろうか。

これを考えるために、ジョン・レノンが発したと言われる以下の言葉をみてみよう。

ぼくが5歳のころ、母は幸せこそが人生で一番大切なのだといつも教えてくれた。学校で大きくなったら何になりたいか書きなさいと言われ、ぼくは「幸せ」と書いた。みんながおまえは課題をわかっていないと言うので、ぼくはあんたらは人生がわかっていないと答えた。 人生とは、あれこれ計画を立てるのに夢中になっている間に、ぼくらの身に起きていることだ。

 

この言葉は、とても面白い。核心をついていると思うわけである。

 

つまり、多くの人にとって、何かをやりたい、何かを成し遂げたい、何かを得たいという、いわゆる目標と言われるものは実は、ある1つのもの、つまり「幸せ」になるという目的のための手段でしかなかったのだ。

 

そして、「幸せ」というゴールは非常に深い。それは、点や線でなく、面や立体である。なぜなら、明確な定義ができないからである。

要するに、「幸せ」はプロセス全体を包含したゴールなのである。だから、今起きている1つ1つのことが「幸せ」に繋がるのだ。つまり、プロセスは密接に「幸せ」に影響しているのである。

 

これらのことから、「実はプロセス自体がゴールそのものである」と言い切ってしまえるのではないかと思うのである。

 

子供が立派な大人に明日変わってくれれば、日々子供と過ごすこと、いい思い出だけでなく、口すっぱく言って気分悪くなったり、喧嘩したりすることも全てスキップしていいかというとそういうわけではないのだ。

 

夢を見て、ビジネスで成功しようとしていることも、その過程で色々楽しみ、苦しみ、必死で進んでいること全てが、スキップすると幸せを手放すことになるのだ。

 

自分らしくあり、自分らしく生きること、それ自体が、ゴールを形成しているということだろう。

 

かのスティーブ・ジョブズが発した「明日死ぬとしたら、今やっていることをするだろうか」という言葉を実践してみると、このことがよくわかる気がする。

 

明日死ぬとしたら、明日達成できないプロセスをやめてしまうのか、それとも1つ1つでも進めようと考えるのか。

 

前者で考えてしまっていることは、幸せではないことをやっている可能性がある。

後者で考えてできていることは、それ自体が幸せであることを証明している。

 

しかし、単純な視点で考えてしまうと、この評価は誤ってしまう。なぜなら、人間は短期的な快楽に寄ってしまうからだ。

 

その時には、マハトマ・ガンジーの次の言葉がきっと良い判断をもたらしてくれる。

明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。

明日死ぬと思うわけなので、猶予は一刻もない。無駄なことは一切やめよう。

一方で、知識を得ること、積み重ねること(これも学びの一種と捉える)は、不老不死と思って良いので、いくらでも時間をかけて良いのである。

 

 

さぁ、あなたが明日死ぬとしたら、今やっていることを行うだろうか。

それでも行うのだとしたら、それをとことん楽しもう(苦しもう)ではないか。それがあなたの目的なのだから。

「怒ってますか?叱ってますか?、非難してますか?批判してますか?」

「怒る」と「叱る」は違う、というのはよく聞く話です。

それは例えば、こういう違いです。

「怒る」と言う行動がただ感情をぶつけることに対して、「叱る」と言う行動は相手に気付きを与えることを目的とします。 

 

and-plus.net

 

これと同様に、「非難」と「批判」も違います。

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批判は思いやり、非難は押しつけ

 

つまり、「叱る」「批判」にあるのは思いやり、気づかせる気持ちです。

しかし、この建前をなんとなく理解しながら、我々はこの2つを思いやりがないほうの「怒る」「非難」で使ってしまっているのではないでしょうか?

 

私がそうでした。先日、3歳の子供が朝の準備中にいうことを聞かず、わめいてばかりいて、保育園になかなか向かわないときに、叱っているつもりで怒っていました。その自分の感情に少し後で気づいたのです。

 

後から考えると、3歳の子供が保育園に10分遅れること、その日朝一でミーティングがあるわけでもなく誰かを待たせているわけではない私が10分遅れることの方が、10分を死守して思いやりを忘れて怒りをぶつける事よりも随分マシなことだと思いました。

 

「非難」は英語でいうと blame 、つまり責めるということで、「批判」はcriticizeやcomment on ということです。

これを文字通りとると、コメンテーターは「非難」ではなく「批判」をする人です。本当にできているでしょうか?それは「非難」じゃないでしょうか?誰かにコメントを求められて、非難していないでしょうか?

 

私はその後、子供との会話において、できるだけ気をつけるようにしていました。でも、叱っているようで怒っていることがあるのです。「思いやりを持っているか?」と聞かれたら最初は当然持っているのであまり違いが見えないのです。だから、叱り始めて結果怒っていたという過ちが起きるのだと考えました。

 

そこで、この違いをもっと強く意識するために、これらの行動をするときに、必ずセットで考えれば良いのではないかと思ったことがあります。

 

それは、「賞賛」です。

対象者が改善されたら、思いっきり「賞賛」するつもりで、「叱り」「批判する」のです。

 

例えば子供には「早く準備しよう!」といって、「うん、わかった」と返ってきたら思い切り「褒める」というのを想定して、話すのです。これなら、「怒る」にスライドする確率が減ります。「どうやって褒めるか」を考えて、発言をするからです。

 

もちろん大人の場合、賞賛をすると却ってバカにしているようになることもありますので、そういうことはしないことが多いわけですが、気持ちは同じなのかな、と思います。

 

直しても賞賛しないようなら、それは「叱り」ではなく「怒り」であり、「批判」ではなく「非難」なのです。

 

人を責めて、感情をそのままぶつけるということは、よくないと思うのです。

 

私は、まだまだ時間がかかるかもしれないですが、「怒る人」ではなく「叱る人」、「非難する人」ではなく「批判する人」になりたい。

 

つまり、もっと人を「賞賛する人」になりたいです。