12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

「楽しむために走るか、楽しみながら走るか」

”楽しむために走るか、楽しみながら走るか”

 

これは、自分が考えた言葉ではない。
映画「カーズ」を子供と一緒に見ていた時に、出てきたフレーズだ。

 

すごく端折ると、昔は地形に沿ってグネグネに作られていた道路が、今は地形を切り裂き、真ん中に高速道路が通されている。昔は楽しみながら走っていたのに、今は、楽しむために走ることになった、というシーンで出てくるフレーズだ。

 

<仕事に当てはめてみた>

仕事をしている人たちの中に、このフレーズを照らし当てた時、どうなるだろうか。
「楽しむ」ことは、どうも悪とされていないだろうか?「必死で汗を書き、辛い思いを耐え抜いたものが、仕事でいう努力である」という風に思われてしまっていないだろうか。

 

このフレーズを聞いた瞬間、このようなことを考えた。


そして、何かすごくスッキリした結論に至った。

「そう、そうだ。だから独立してやっているんだ」、と。

 

<憧れていたのは、「楽しむために走れること」>

楽しむために走ることができる人はスゴイと思う。

自分は、そんなことはできないのだと思う。続かないからだ。

一方で、この「楽しむために走ること」に憧れていた。「血のにじむような努力」とかそういうことをできる人を心から尊敬し、憧れていた。そして、少しずつ近づいているんだとどこか誤解していたように思う。

 

しかし、今から考えると自分はそんな人間ではなかった。どんな状況であれ、どんな背景があれ、目の前のことを楽しむようにしてごまかしつつ近づいてきたのだった。

 

例えば、受験勉強。
勉強をする理由なんて、学生時代にあまり考えなかったと思う。それがいいことかどうか抜きにして。やるもんだと素直に思っていた。あまり、大学に入って、いい会社に入ってというような、ハングリーさもなかったと思う。

 

勉強の1つ1つを取ると、正直楽しくないことも多い。「楽しむために走る」なら、ここは我慢して、とりあえず、受験に合格した時のことだけを考えて自分にムチを打つんだろう。


自分は、どうやって楽しむかを考えた。「今日、何ページ進められるか」のゲームにしたり、友達とクイズを出し合うこと、テストの点数をあげることによって評価を得るという楽しみに。すごい工夫をしたわけでもないし、誰でもやっていることかもしれない。でも、やる気が抜ける時はどうしてもあった。自分という人間は、放っておくとどこかで力を抜くということがわかって、とても欠点に感じ、なんとかしようという思いは持っていたと思う。

 

仕事でも同じだ。自分は、ノルマを与えられて泥臭くやり続けて、嫌な方法をとってでもやり通すということは、正直できない人間かもしれない。
幸い、そういうのとは無縁な会社・環境で仕事をさせてもらえた。でも、仕事はあるがまま楽しいものというのは多くない。

 

だから、何かみんなと同じ仕事をする時、いかに自分なりの方法を考え出してやるかを考えた。そのために、本をたくさん読むことが楽しく、新しいだろうやり方を思いついた時は、楽しかった。

 

こうやって、結局、「楽しむために走れる」人間に憧れ、嫉妬しながら、「楽しみながら走ってきた」のだと考えた。

 

<独立した理由>

独立した時に、正直いろんな困難に直面する。
「なぜそんな苦労してまでそんなことしてるんですか?」と言われることも少なくない。これまでやってきた仕事で、今から何度振り返ってもやりたくない仕事なんて一つも思い出せない、多くの仕事が楽しかった。これだけは、自分は本当に恵まれていたと思うし、唯一自慢できることかもしれない。

それなのになぜ、独立だったのか。

 

今まで、何気なく、「いや、やりたかったことなんで」と答えていたが、どこか説得力に欠けているな、とは思っていた。。多分、聞いた人はどこかで納得しながら、「変わった人なんだな」と思っていたことだろう。正直な話、自分自身も納得させる言語化ができていなかったのだ。だから、自問自答したことがある。企業内にいて大きな仕事をすることと比較して意義を考えて悩んだこともある。

 

でも、一方で「仕事は辛いけど、帰宅後や週末は趣味に没頭しているので、まぁ楽しいですよ」ということの真意は正直全然理解できなかった。「一番長い時間をかけている仕事を楽しめばいいのでは?」と思っていた。時には、偉そうに言ってしまったこともあるかもしれない。

今となっては、人それぞれでいいことだと思っているし、たまたま自分が仕事に恵まれていたことを盾にしているだけかもしれないし、むしろそういうことができる人はスゴイと思うに至った。

 

しかし、当時は、その違いを明確に言えなかった。

 

そこで出会ったフレーズが冒頭の

「楽しむために走るのではなく、楽しみながら走る」、だった。


そう、それだ、と思った。

 

<「"本気で"楽しむため」だった>

自分が設定した目標が高い場合、困難も降りかかるし、バカにもされるかもしれない。
結果的には、目標到達まで時間がかかるかもしれない。

でも、なんでその道を選ぶのか。それは、「楽しい」からだ。でも、ただ楽しいだけではない

 

スタートアップの世界は、ヒントはたくさん善意で教えてくれる人はいるが、誰も答えは教えてくれない世界だ。何が正しいかの方法論がない世界だ。答えだと言い切る人もいて説得力もあるが、自分はその人ではないし、やっている事業も全く違う。だから、全てはヒントでしかないのだ。

 

それは、次のカーブを外から回るか、内から回るかの選択が、命取りになるかもしれない恐怖もありつつが、その選択と意思決定をするハンドルを確実に自分が握っている、そういうことなのだ。

 

もちろん、企業内でも楽しい仕事はたくさんある。しかし、命取りになったり怪我をするリスクは実は会社がとってくれていた。
これは大変ありがたいことだが、本当に本気になれなかったのではないか、と思う。

 

すぐ近くに身が震えるような恐怖があることが、自分の感覚を研ぎ澄ませ、ようやく"本気"を引き出してくれる。


本気で楽しむというのは、そういうことではないかと思い込んでしまったのだ。これは今でもこれを否定する思いが芽生えたことは一度たりともない。

 

自分にとって、「本気で楽しむ」というのは、

 

テレビゲームでレースをするのではなく、実際にレースをすることであり、
机上の理論で人へアドバイスするのではなく、自分自身が実践でやることであり、
安全な立場から人のやり方にアレコレを言うのではなく、自分でやることである。

 

そういう風に思った。

「本気で楽しむことを知らずに、人生を終わりたくない」と思ったことが、独立の理由だ。

 

<企業内で恐怖を感じて仕事ができる人はほんの一握りの超優秀な人だけ>

もちろん、企業内でそういうことをやっている人がいないわけではない。でも、それは超優秀な人の話だ。凡人には、そんな環境を与えさせないのが企業という組織体の鉄則だ。当たり前だ。企業も命をおいそれと1社員に委ねるようなことはしない。

 

結局、偉そうに言っているが、ただ自分はそういう場をただ勝ち得ることができなかっただけなのかもしれない。

しかし、そのおかげで独立が最善の選択肢であり続けることができたのだ。


正直、今も1割の想定していた困難と9割の想定していなかった困難との間で、何度も頭をハンマーで殴られたかのような感覚や、描いた青写真を一瞬でぐちゃぐちゃにされるような感覚に味わうこともある。大抵、そこから這い上がることを決めるとより良いものが出来上がることが多いことは、ようやくわかってきた。

 

まだまだ、心は折れるつもりはないが、折れてもおかしくないことは容易に想像できる。折れたという経験を持つ人がいたら、そこまでやりきったことを素直に尊敬できるくらい、今ではこれを身近なことと考えるようになった。

これは、ただカーブを曲がりきれずコースアウトすることに過ぎないからだ。そして、そのハンドルを握っていた人に、誰もとやかくいうことはできない。

 

だからこそ曲がれた時の達成感は、言葉に表せられない。いや、当然曲がれるでしょうというようなゆるいカーブですら、本当に嬉しい。今は、カーブを回れるアイデアが出た時ですら、飛び上がるほど嬉しいし、考えるのが楽しい。

 

そういうことだ。
「本気で楽しみながら走ること」、これが自分にとっての独立だった。

 

さて、これで少しは納得感を得ることはできるだろうか。