「悔しさ」、なければ作れ。以上。
悔しさを忘れた時に成長は止まる。
と、私は思う。
正直、悔しいことを見返してスカッとしたい、と思っていることは否定しない。
でも、スカッとする以上に、よく考えると悔しさがなくなることはとても怖いのではないか、と思った。こんな感覚は異常なのだろうか。
ある本では、深層心理でお金持ちになることを多くの人が怖がっていて、結局その通りになっている。というようなことが書かれていた。自分は、なぜか妙に納得した。
悔しさがあるから、楽しい。
楽しさがあるから、悔しい。
このバランスを失うことはとても怖い。楽しくなくなることももちろん怖いが、同様に悔しくなくなることも怖い。知りうる限りの理論上、循環しなくなるからだ。
自分が臆病者なのか。それは全く否定できない。
例えば、死に直面した戦いにいく士と同じ覚悟を仕切れない時点で、少なくとも誰かよりは臆病者であることは間違いない事実だ。
でも、この怖さを乗り越えることが成長することなんだと思った。
だから、マズローは自己実現の上に自己超越を作ったのではないかと思う。5段階という綺麗な終止符に6段階目を作るというモチベーションは、相当ではないか、と。
この壁は恐ろしく高いと思うことがある。でも、だからこそ超えられない自分が悔しい。と考えた時に、あ、こうやって新しい悔しいは生まれるんだな、と。つまり、目標設定で、悔しさは生み出せる。
高い次元で戦っている人は、普通の人にはわからない、こんな戦いをしているのではないかと。ふと思った。なるほど、ビッグマウス、有言実行、といわれる人が尊敬されるわけだ。
これが真実かなんて確かめる気もないけど、真実ではないと疑う気も、ゼロだ。
悔しさがなければ本当の底力はでない。だから、怖いのだと思う。底力のない自分なんて、むしけら(虫に失礼だが)と変わらない。それを知っているから。
結論。
悔しさは、なければ作れ。少しあれば、叫びたくなるくらい考えて感じろ。
(本当に悔しいと思っている人はこれを否定できないのではないか。)
いや、作れないという人に。
何年もかけて、自分が成したことの小ささ、を考えろ。
何十年も生きてきたのにもかかわらず、人間としての器の小ささを考えろ。
自分が、悔しさを感じない人間だと大手を振って宣言できないことに悔しさを感じろ。
というぐらい、悔しさは大事だと思う。
今、何かが辛いと思っている人へ。辛いことがいつか悔しさに変わると思う。
それは、生きる糧になり、成長する起爆剤に間違いなく、なると。
それは、実は誰もが望んでも手に入れられない糧だ。
なぜなら、それは、あなたが生きてきた証明であり、逃げなかった証明であり、チャレンジした証明だからだ。
もちろん、悔しさに向き合える自分に、私はなりたい。向き合いすぎて開き直れる人間にもっとなりたい。
本当に悔しい時は、こんなことは言えないだろうから。
最も親しい人へすら、できるだけ言わないだろうから。
あぁ、何十日ぶりなのだろうか、ふと悔しさを忘れたのは。
いや「忘れたことに気づけたのは」というのが正しいだろう。
まぁ、明日の朝には夢が覚めるだろうけど。
数年以内に自分で望んだ悔しさに後悔しているだろう自分へ、ここに残しておこう、と。