12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

やってることが大きいとか、小さいとか・・・

あなたが神様だとして、なんでもいろんな体験を人に与えられるとして、

「やってることが大きいとか、小さいとか」をどうでもいいと思うための期間が必要なんだという前提があった時、


そしてそれに気づいてない誰かがいた時、あなたなら、どういう体験をさせて理解させようとするでしょうか?

 

おそらく、その人が大きな落胆をしたりすること、
信じていたものを失うような感覚や、またはその事実を見せつけたり、
小さな感動を与えたりするのではないかと思います。。


できれば、やれることは大きい方がいいと思います。
いろんな人に影響を与えられるような、すごい大きなことをやった方がいいと。(正確には目指した方がいい、と。いきなり前提を覆すような話ですが。)

 

でも、大きなことをやる前に、絶対にショートカットしてはいけない問題が、その前にある、それは、「小さなことにどれだけこだわれるか」、だと思っています。

なぜなら、「大きなことをしたからすごい」というのは本人の自己満足だけでしかなくて、多くの人は「正しいことをした人をすごい」と思うのだと思うからです。

 

これ自体が正解とは言い切れません。しかし、もし、将来、そういうことに気づいたとしたら、過去の自分に上の通り、「やってることが大きいとか小さいとか」どうでもいいことをなんとか教えようとするのではないでしょうか。

だから、上でいった誰かとは、今の自分なのです。

 

大きい小さいではなく、正しいか正しくないか。
それの方がよっぽど重要で、そこを間違うと、大きいけど正しくないことをやるだけで、あとで後悔するだけだと思うのです。

ということに少しでも共感できれば、今の目の前の障害をもう一度考えてみてください。

 

「あぁ、なるほど、そういうことか」「だからか」ということが多いのではないでしょうか。

 

いま目の前のことに、正しく向き合い、正しく挫折し、正しく立ち直って、正しくこなしていくこと。
そして、周りの人がいう正しいではなく、自分が思う正しいであること。

 

しんどいし、大変だけど、これから逃げるようでは大きくて正しいことは一生できない、と思っています。

 

他責にしない方法は、フンをかけてきたハトに感謝する方法と同じだ

他責にする行為は、最も醜く愚かな知的行為であると思う。愚か、というのは、その瞬間に自分の成長にプラスにならないからだ。

そうわかっていても、突発的に起きた事象で知らず知らずそうしてしまっていることがある。後で後悔することもある。

 

それを解決する方法を発明してしまった。これはスゴイかもしれない。w

 

その方法とは、
「すべての事象を、"奇跡"というレンズを通してみる。」
というものだ。

ただ、これだけだ。

 

嫌な思いをした体験、例えば、ハトにフンをかけられたということがあったとしよう。
たいていの人は、「あぁ、最悪だ」「運が悪い」「なぜあそこに屋根を作っておかないのか」とイライラして流してしまうのではないだろうか。
ハトにフンをかけられたことを「被害」というレンズでみると、こうなる。


一方、ハトにフンをかけられたことを「奇跡」というレンズで見てみよう。

ハトにフンをかけられるのは人生で数回もないことだから、確率的には奇跡である。とまず奇跡を肯定する。この肯定は重要だ。

 

これを越えればあとは簡単。

「奇跡」というワードには不思議な力があるからだ。

 

なぜなら、そのレンズを通しただけでこう考えないだろうか。
「なぜ、その"奇跡"は起こったのだろう」、と。
「神様は自分に何を経験させたかったのか」、と。

そして、事象分析に入る。
「フンをかけたハトは悪意があったのだろうか?」

「あったとしても、もしかしたらその前に、人間にイタズラをされたとかがあるかもしれない。」そうだとしたら、かわいそうだ。

「いや、今回は、ハトの知能レベルを考えると悪意がない、と考えてみるのが妥当ではないか。」カラスなら悪意認定できそうだけども。

「なるほど、悪意がない行為で人を傷つけるということがあり、その痛みや辛さがどんなものか、これが、神様が自分に伝えたかったことではないか。」

「他の人も同じ経験をしたらこんな嫌な思いをするのかな」と考える。
人の気持ちになって考える、ということを実践できだす。いつもは忙しくてやれていないようなことかもしれない。

「自分自身も今回のハトのような行為をしていないだろうか、良かれと思って。しているとしたらどういうことだろうか」、と考える。

そして、そこでいろんな思い当たることを考え直すきっかけになる。その瞬間からそういうことに気をつけるようになる。

つまり、自分は少し成長できたことになる。しかも、なかなかできない被害者の痛みをリアルに感じながら、体験として心に刻むことができるのだ。

 

「被害」と捉えた人にはイライラしか残らない。場合によってはそのイライラに便乗して、他人を傷つけたりしているかもしれない。これが、"他責"という行為だ。

一方、「奇跡」と捉えると、もっと暖かい気持ちになる。ハトを恨むことはない。むしろ感謝すらできる。これが、「他責にしない」ということでもある。

 

どんな事象もと言ったが、意識するのはネガティブなものだけでいい。
「奇跡」と捉えることですべてが「他責にしなくなり」、自分にプラスになる。

 

独立し、人と人とのつながりの強さもモロさも、自分の無力さもとてもよく感じることができる。しかも、独立後の出会いは、すべてが本当に奇跡のようなものだ。自分が生きていくために残された方法は、成長する方法以外に道はない。だからこそ、今回のような思いに強く目が向けられる(=奇跡の体験)ようになったのだと考えている。

 

だから、他責にせず、常に成長するために、普段から意識して考えている方法だ。

あなたには「野望」がありますか?

(1) 期待してよい人とよくない人
フランスの作家ジードという方が「真実を探しているものを信じよ。真実を見つけたものは疑え」と言ったそうだ。非常に腑に落ちるフレーズだ。

 

これまで、色んな人と会ってきたし見てきた。いい意味でも悪い意味でも、期待を裏切られたこともある。

裏切られた多くのケースは、上のフレーズに集約されている気がする。「こんなの私にとっては簡単ですよ」という人のアウトプットは期待を裏切られることが多い。

もちろん、少し昔、その方が努力して作り上げた、築き上げた時ならそのアウトプットは良いものだったのかもしれない。しかし、時代は変わっている。そのアウトプットにはその人が、過去ではなく今、必死にならないとできない付加価値が加わらないと、色あせたものになる。

だから、「簡単ですよ」という人は、その領域ではあまり信じられない。なぜなら、その人は、自分の"できる"100点満点でものを語っているからだ。もちろん、期待せずに、アウトソースする場合にはこのような方々にお願いをすればいいケースもある。

 

一方、期待してよい人は、その課題を「面白いですね。」「やるならば、こういうことにチャレンジしたい」「なんとか頑張ればできると思います。」という。
こういう人は大体、自分を伸ばし、成長しようとしている人だ。このタイプの人は、自分の"やりたい"100点満点で語っている。期待を100%を超えて返すことをベースにしているのだ。

 

(2) 真実を探している人を見分ける方法
でも、真実を探している者と見つけた者ってどうやって見分けるのか。

自分なりの答えは、ストックではなくフローを見せてくれる人だ。
例えば、今まで何をやってきたか、どんな功績があるか(=ストック)を見せようとする人ではなく、今どういうことをやっており、何にチャレンジしているか(=フロー)を見せる人だ。
もっと端的に言うと、実績ではなく、行動だ。

 

実績はもちろん、行動ができることを証明する者の一つだ。しかし、その人が今から行動する保証は全くない。

「真実を見つけた」人は、マネージメントに立ってもいけない。その人の管理下に着く「真実を探している者」を腐らせるか、離脱させるだけだ。


こういう人は、この観点で話を聞いていると、言葉の端々でその兆候はキャッチできてしまう。

ただ、世の中の常識や多くの人、風潮は「真実を見つけた」人をもてはやす(ように見える)。それを見つけたこと自体はすごいことだが、その評価自体も現在ではなく、過去のものなのだ。

これからを作っていくことができるのは「真実を探し続けられる人」だ。
だから、その差に新卒も大企業出身のエリートも関係ない。

 

(3) 自分が「真実を探している者」でありつづける方法
人生の中で、いつでも真実をずっと探し続けるのは大変なことだと思う。時には見つけた感覚に浸りたくなる時もあるだろう。
しかし、その見つけた感覚で、承認欲求を満たしているとしたら、とても危険だ。

一度その甘い毒を飲んでしまうと、断ち切るには相当な覚悟と行動力がいる。どっぷり浸かってしまうと「すごかった人」ですら抜け出せなくなる。
これこそが、30~40代の成長の壁なのではないだろうか、と思う。

 

これを断ち切る方法が、一つある。

それは、いつでも、誰にでも話せる「野望」があるかどうか。野望とは辞書によると「身の程を超えた、大きな望み」だ。やったらできるだろうことではなく、一見できなさそうなことだ。別に大きくある必要はない。崇高で偉大である必要もない。

 

だから、時には嘲笑されたり、愛想笑いをされつつ無視されたり、あからさまな社交辞令で褒められることもある。多くの人に「やろうとしていること」ではなく、「できていないこと」を責められる。なので、そんな簡単なことではないかもしれない。


でも、その野望を言い続けられてさえいれば、少なくとも「真実を見つけた」側にはいかなくて済む。たまに、虚像の野望もあるが、その場合は行動が一切ないので、すぐにバレる。

 

さぁ、今のあなたには、野望がありますか?

「失敗」をしていないということは挑戦をしていないということ

やはり、スタートアップの世界は、とても面白い。

知れば知るほど、そう思う。

 

それは、人生を賭けて壮大なギャンブルをするようでもあり、狂ったように成し遂げたいことを追い続けるドラマのようなものでもある。今までが現実だったとするとどこかバーチャルに近く思えることがあるという意味でもドラマという表現はあっているように思う。

ドラマで言えば立ち上げ段階の今は、まだ苦悩し、屈辱を感じている段階かもしれないし、最終回まで続くのかすらわからない状況だ。

 

この世界だと、周りで自分たちを守ってくれる義務を持った人はほぼいない。でも守ろうとしてくれる同志は少しだけいる。
そこで起きる失敗も成功も全て自分が原因となる。言い訳はする相手すらいない。でも聞く必要のない言い訳を聞いてくれる人は少しいる。

 

その世界を感じる中で、衝撃的に感じたフレーズが、これ。

『「失敗」をしていないということは挑戦をしていないということ』

 

でもこれ、よく考えると皆が知っていることだった。
「失敗は成功の元」、「成功は99パーセントの失敗に支えられた1パーセントだ」とか、小学生でも知っている。

でも、これを本当の意味で実践できていないことに気づいた。「言うは易し」というやつだ。

 

大企業にいると、失敗の定義が違う形になるんだと思う。
そもそも「事業や施策の失敗」は許されないことが多く(全てではないが)、失敗は例えば報告や相談をしていないことだったりする。そして、「施策に失敗しまして」「事業に失敗しまして」は無能だとされるように思う。

 

本当は、

 

成功していること>失敗していること>何もやっていないこと

 

なのに、

 

成功していること>何もやっていないこと >>>失敗していること

 

みたいになっているイメージ。何もやっていない(に等しい)人があたかも上の位にいるように錯覚して見える不思議な現象ではないかと。そして自分は大別すると何もやっていない領域にいたに過ぎな買ったということに気づいた。

そして、それが私の当たり前を形成してしまっていたことにも、ようやく気づいた。

 

今、この立場になって、徐々にプロダクトができてきていて、でももっと綺麗にしたいという思いもあって、この状態だと恥ずかしいとか、なんというか出来かけの夢を否定されて、自分が自分自身に失望したくないとか思っているんじゃないだろうかと思えた。


最後は、成功するためにクリティカルな失敗は避けて、だからこそ小さな失敗をできるだけ早くたくさんして、成功に近づける、これが正しい。目の前に小さな失敗が見えるだけなら、Goということだ。ボロクソに否定され、けなされるくらいで済めば、それを避けて後で血だらけで死を待つだけ状態になるより遥かにいいということ。

 

こう考えた時に、これは人生と同じだと思った。

人生も同じだ。色んな小さな失敗をしてきたから、多くの人が今、大きな失敗をしない。子供が成長する過程はうまくこういう学習が作り上げられている。こうしたら人とうまくやれないとか、こうしたら怪我をするとか、色んなことを学んで少しずつ大人になるのと同じだと。

 

やらない限りは成功しないし、やらない限りは失敗しない。でも何もやっていないと、何の醍醐味も味わえない。まぁ、味わえないから味があることも知らないのかもしれないが、味があると知ってしまうと味わおうとしないことは罪になる。

 

とにかく、人生を終える時に「やっていない側だった」だけは思いたくない。
こういうのがダイレクトに体験、実感、反省、実践、やり直しができるのが、この世界なのだろうか、だから面白いのだと思う。

 

そしていつか、この縮図が人生を覆う時が来る。それが失敗であれ、成功であれ。

だから、今日挑戦できることをしていなかったら、そういう人生だったとなるだけなんだと。そう思った。

「始めること」は、何もすごくない。すごいのは「続けること」。

「独立をしました」

「新たな取り組みを始めました」

「英語の勉強を始めました」

「A社に就職(転職)しました」

「昇進しました」「◯◯役に選ばれました」

「立候補しました」

 

自分が始めることは何もすごくない。(といつでも思っていたい。)

 

もちろん、それぞれの背景には、何かの甘えを断ち切って始めたという経緯はあるかもしれないから、あとから見返してみて、すごいこともあるとは思う。

でも、その始めた時点では、何もすごくない。勘違いしないようにしたい。

 

なぜか。

それは、途中でやめたら無価値だから。すぐやめたらむしろ、負の価値かもしれない。

続けられないことを始めるのと、続けるために始めることは、始めた時点では誰も区別がつけられない。

 

続けることは、とてもすごい。だから、それに比べて「始めることは何もすごくない」。そして、「続けられないことを始める」よりも、「続けられないことを始めない決断」の方がすごいことだ。

 

[すごさの優劣 ]

続けること >>> 続けられないことを始めないこと >>> 続けられないことを始めること > やりたいと思ったことを何も始めないこと

 

この理解をした上で、始めることを公に宣言することはとても勇気がいる。
続けられなかったらマイナスになるから。「あぁ、口だけの人だ」とも言われて当然だ。

 

「有言実行」は「有限実現」ではない。

 

それを乗り越えて、宣言して、やり続ける。これが「有言実行」だ。こういうことができる人は尊敬する。結果的に、その人が周りの人がいう成果にたどり着かなくても。

独立して大成功しなくても、英語が喋れるようにならなくても、続けていることが有言実行だと思う。実現することはすごいことだけど、同じ実行をして実現した人としなかった人の差はそれほどないかもしれない。

 

また、「有言実行」は「多言少実行」でもない。

決して、いろんなことをやります、と言いまくって、そのうち数少ない一つをやり抜いたことを有言実行とは言えない。だから、「有言」行為自体をかなり考え込まなければならない。やると宣言したことは、同じ宣言をした100人中99人が止めるというまではやめない覚悟がいる。

「できるかできないか」じゃなくて「やりたいかやりたくないか」

ある方に言われて、一瞬ハッとして、それ以降とても教訓として頭に残っている言葉があります。

 

それは、
「できるかどうかを考えず、やりたいかどうかを考えればいい。やりたいと思えば、必ず"できる"にたどり着ける」と。

 

その瞬間は、その通りだなと納得したものの、特段、"バットで殴られたような衝撃"ほどまでには感じていませんでした。


しかし、その後、色んな設計や取り組みをしている時に、よくフラッシュバックするようになりました。これはつまり、何かをやる時に自然と「これ、できるかな?」と考えてしまっていたということです。自分ではそんなつもりはなかったのに、、、これはショッキングでした。


最近は、そういう時に自然と上のフレーズが頭に戻ってきて、自分を否定してくれます。

「じゃなくて、それやりたいの?(できるかできないかなんて聞いてない)」と。

 

「やりたい」と考えたら、方法を必死で考える。
すると、驚くほどスルスルとできる方法が見えてくることがあり、しかもこの確率が異様に高い気さえするのです。(その思考の入りの瞬間はストレスだらけになったりしますが。。。)

本当にこれ少し前まで「できるかなぁ」と考えていたことなのか、と疑うくらいになることがあります。


アウトプットとしても当然よくなります。(と信じています。)

だって、「できることの集大成」なんて、夢がない。
「やりたいことの集大成」には夢がある。

そう思いませんか?

 

初めは、ちょっとしたきっかけでしたが、この言葉の真意への気づきは、1年後にはより決定的に大きな違いをもたらすと確信しています。

 

後から気づいたら、あの時バットで殴られたくらいの衝撃をもらえていたんだな、と思う、不思議な体験でした。

成功の質は、失敗の数が証明すると思った話。

一見すると世の中では「できること」を認められ、評価され、それがすごいことのように思ってしまいます。もちろん、すごいことなのですが、本当にすごいことはその裏に秘められた努力の数だと思います。

 

何度も何度も挑戦し、食い下がり、最後まで折れずに踏ん張り、万一折れても立ち直り、「これで最後」を何度も繰り返す、この挑戦に本当の価値はあると思います。

なぜ価値があるかは、その粘り強さが「他の人が真似できないこと」であり、「その当人がその成功に再現性を持っているということ」を言えるからだと思います。つまり、宝くじに当たったわけではないと言えるのです。

 

「できるようになること」の陰には、「できるようになろうとすることがあり」その量と比例して、「できるようにならなかったこと」が出てきます。これが失敗です。当然、少し難しいことに挑戦しているから、思うようにいかないことって出てきますよね。

 

そして、この失敗が「できるようになったこと」の重要な証拠なのではないかと思っています。たまに偶然出来てしまったことを自分でやったかのように勘違いしてしまうことがありますし、そもそもできて当然のことだったりするかもしれません。その成功の陰に膨大な失敗がなければ、実は、大した功績でもないということです。(もちろん、タスクとしては評価した上で)

 

その成果の再現ができるという可能性は未知になるか、誰でもできてしまうことということだからです。

 

このヒントの背景には以下のような気づきがありました。

スタートアップの成功の秘訣は「失敗の数を増やす」ことと知って、すごく納得しました。(確か、「逆説のスタートアップ思考」より)これは、とても面白いKPIです。本来は目的に置いてしまってはいけないものですが、目の前のことを成功させたくない人はいません。だから敢えて失敗の数に目を向けるとちょうどバランスが良いのだと思いました。

 

※自分自身への心得

だから、どんなに人々やメディアが「できること」を賞賛するような言い回しをしていても、自分はそれを鵜呑みにしないようにしよう、と私は思います。その人が、どれだけ失敗を重ねたかをできるだけ見るようにしよう、と。

 

逆に、できなかったことが批判されるのを見ても、または自分が批判の対象になっても、それができることなのにできなかったのか、挑戦の結果なのかにより価値は違います。だから、そちらをできるだけ見るようにしよう、と。

 

そして、同じようにそれらを見れる人たちを見つけ、価値を共有し、次の挑戦につなげよう。これを続けられるうちは、成長し続けられるということだと思いました。