12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

「始めること」は、何もすごくない。すごいのは「続けること」。

「独立をしました」

「新たな取り組みを始めました」

「英語の勉強を始めました」

「A社に就職(転職)しました」

「昇進しました」「◯◯役に選ばれました」

「立候補しました」

 

自分が始めることは何もすごくない。(といつでも思っていたい。)

 

もちろん、それぞれの背景には、何かの甘えを断ち切って始めたという経緯はあるかもしれないから、あとから見返してみて、すごいこともあるとは思う。

でも、その始めた時点では、何もすごくない。勘違いしないようにしたい。

 

なぜか。

それは、途中でやめたら無価値だから。すぐやめたらむしろ、負の価値かもしれない。

続けられないことを始めるのと、続けるために始めることは、始めた時点では誰も区別がつけられない。

 

続けることは、とてもすごい。だから、それに比べて「始めることは何もすごくない」。そして、「続けられないことを始める」よりも、「続けられないことを始めない決断」の方がすごいことだ。

 

[すごさの優劣 ]

続けること >>> 続けられないことを始めないこと >>> 続けられないことを始めること > やりたいと思ったことを何も始めないこと

 

この理解をした上で、始めることを公に宣言することはとても勇気がいる。
続けられなかったらマイナスになるから。「あぁ、口だけの人だ」とも言われて当然だ。

 

「有言実行」は「有限実現」ではない。

 

それを乗り越えて、宣言して、やり続ける。これが「有言実行」だ。こういうことができる人は尊敬する。結果的に、その人が周りの人がいう成果にたどり着かなくても。

独立して大成功しなくても、英語が喋れるようにならなくても、続けていることが有言実行だと思う。実現することはすごいことだけど、同じ実行をして実現した人としなかった人の差はそれほどないかもしれない。

 

また、「有言実行」は「多言少実行」でもない。

決して、いろんなことをやります、と言いまくって、そのうち数少ない一つをやり抜いたことを有言実行とは言えない。だから、「有言」行為自体をかなり考え込まなければならない。やると宣言したことは、同じ宣言をした100人中99人が止めるというまではやめない覚悟がいる。

「できるかできないか」じゃなくて「やりたいかやりたくないか」

ある方に言われて、一瞬ハッとして、それ以降とても教訓として頭に残っている言葉があります。

 

それは、
「できるかどうかを考えず、やりたいかどうかを考えればいい。やりたいと思えば、必ず"できる"にたどり着ける」と。

 

その瞬間は、その通りだなと納得したものの、特段、"バットで殴られたような衝撃"ほどまでには感じていませんでした。


しかし、その後、色んな設計や取り組みをしている時に、よくフラッシュバックするようになりました。これはつまり、何かをやる時に自然と「これ、できるかな?」と考えてしまっていたということです。自分ではそんなつもりはなかったのに、、、これはショッキングでした。


最近は、そういう時に自然と上のフレーズが頭に戻ってきて、自分を否定してくれます。

「じゃなくて、それやりたいの?(できるかできないかなんて聞いてない)」と。

 

「やりたい」と考えたら、方法を必死で考える。
すると、驚くほどスルスルとできる方法が見えてくることがあり、しかもこの確率が異様に高い気さえするのです。(その思考の入りの瞬間はストレスだらけになったりしますが。。。)

本当にこれ少し前まで「できるかなぁ」と考えていたことなのか、と疑うくらいになることがあります。


アウトプットとしても当然よくなります。(と信じています。)

だって、「できることの集大成」なんて、夢がない。
「やりたいことの集大成」には夢がある。

そう思いませんか?

 

初めは、ちょっとしたきっかけでしたが、この言葉の真意への気づきは、1年後にはより決定的に大きな違いをもたらすと確信しています。

 

後から気づいたら、あの時バットで殴られたくらいの衝撃をもらえていたんだな、と思う、不思議な体験でした。

成功の質は、失敗の数が証明すると思った話。

一見すると世の中では「できること」を認められ、評価され、それがすごいことのように思ってしまいます。もちろん、すごいことなのですが、本当にすごいことはその裏に秘められた努力の数だと思います。

 

何度も何度も挑戦し、食い下がり、最後まで折れずに踏ん張り、万一折れても立ち直り、「これで最後」を何度も繰り返す、この挑戦に本当の価値はあると思います。

なぜ価値があるかは、その粘り強さが「他の人が真似できないこと」であり、「その当人がその成功に再現性を持っているということ」を言えるからだと思います。つまり、宝くじに当たったわけではないと言えるのです。

 

「できるようになること」の陰には、「できるようになろうとすることがあり」その量と比例して、「できるようにならなかったこと」が出てきます。これが失敗です。当然、少し難しいことに挑戦しているから、思うようにいかないことって出てきますよね。

 

そして、この失敗が「できるようになったこと」の重要な証拠なのではないかと思っています。たまに偶然出来てしまったことを自分でやったかのように勘違いしてしまうことがありますし、そもそもできて当然のことだったりするかもしれません。その成功の陰に膨大な失敗がなければ、実は、大した功績でもないということです。(もちろん、タスクとしては評価した上で)

 

その成果の再現ができるという可能性は未知になるか、誰でもできてしまうことということだからです。

 

このヒントの背景には以下のような気づきがありました。

スタートアップの成功の秘訣は「失敗の数を増やす」ことと知って、すごく納得しました。(確か、「逆説のスタートアップ思考」より)これは、とても面白いKPIです。本来は目的に置いてしまってはいけないものですが、目の前のことを成功させたくない人はいません。だから敢えて失敗の数に目を向けるとちょうどバランスが良いのだと思いました。

 

※自分自身への心得

だから、どんなに人々やメディアが「できること」を賞賛するような言い回しをしていても、自分はそれを鵜呑みにしないようにしよう、と私は思います。その人が、どれだけ失敗を重ねたかをできるだけ見るようにしよう、と。

 

逆に、できなかったことが批判されるのを見ても、または自分が批判の対象になっても、それができることなのにできなかったのか、挑戦の結果なのかにより価値は違います。だから、そちらをできるだけ見るようにしよう、と。

 

そして、同じようにそれらを見れる人たちを見つけ、価値を共有し、次の挑戦につなげよう。これを続けられるうちは、成長し続けられるということだと思いました。

誰もが最高の能力と最高の環境を持っている

人にはいろんな欠点も長所もあります。
欠点は、裏返すと長所になり、その逆も然りです。

具体的には、保守的な人はリスクを避けることができますが、リスクに挑戦することが苦手です。なのに、保守的な性格をまるごと欠点と思い込んでいる人がいたりします。

 

たとえば、スタートアップの起業家で超保守的というのは聞いたことがありません。
しかし、もし超保守的な人がスタートアップをやろうとしたのだとしたら、それ相応の理由と環境があってスタートをしているはずです。

 

したがって、「起業家なのに超保守的という欠点がありまして」というのは幻想で、そもそも存在しないことになります。
その人は保守的という新たな面白みを持って起業に挑戦しており、新しい成功の形を築けるのかもしれません。


結局は、「起業家なのに超保守的という面白みを持っておりまして」ということと全く変わらないのだと思うのです。

そもそもやろうと思ったり、やっていることがあって、そこに能力や性格やスキルがあるわけであり、やろうとしている時点で、全てはもともと長所でも短所でもないのです。だったらすべてを長所と思った方が、すごく使い勝手が良い。

 

たとえば、計算能力が低いということがわかっていれば、それを短所とするのではなく、「だから、きっちりエクセルに計算させるよう緻密に入力作業を馬鹿みたいにできるんです」という長所にすればいいのです。

 

つまり、すべての人は、今目の前のことを行うために最高の能力と環境があるのです。
だから、能力と環境での言い訳は、前に進むためには意味をなしません。

言い訳の対象になるのは、努力が足りなかったこと、我慢が足りなかったことでしかないのです。

 

さぁ、頑張りましょう。

成長とやる気を維持する、たった1つの自分への質問

「1ヶ月前にできなかったことができるようになっていますか?」

 

今やっていることが、形になるまでに時間がかかるとか、評価を受けづらいとかで、すぐに結果に結びつかない場合、成長しているかどうかが進んでいることの証明となり、そのモチベーションの助けになります。

 

「成長する」と表現すると具体的なイメージが湧きづらいのでなんとなくで進んでいるように思ったり、逆にいやこんなの成長といえるのかな、と思ってしまう。でも、具体的に言うと、

 

1年前できなかったことができるようになっていますか?
半年前できなかったことができるようになっていますか?
1ヶ月前できなかったことができるようになっていますか?

 

ということです。

これを常に問い続けなければならないと思います。

 

例えば、
「1ヶ月前には、Javascriptでこういう動作をさせるということができると自信を持って言えなかったが、今は言える。」
「1ヶ月前、30件の書類整理を1時間でできなかったが、今はできる。」

 

といったほんの簡単なことでいいのです。

それをきちんと省みて、認めていくことが大事だと思います。

 

対象が、当然やりたかったこと、やりたいことである前提ですが、これが確実に見えているならば、今どんなに苦しくても、報われなくても、日の目を見なくても、やっていることは正しいし、いつか報われる時が来ると信じます。

少なくとも理想の自分に少しずつ近づいているわけですから。スピードはそんなに気にしなくていい。なぜなら、これを続けていると勝手に意識するようになって、勝手にあげたくなるのが人間だから。

 

そして、これはうまく行き始めてからも同じです。

この問いを止めた時は、衰退のスタートだと、そう思います。

この習慣を身につけるために、誰にも必ず不遇の時代があるし、あるべきだと思います。

 

あなたは、今、できなかったことができるようになっていますか?

起業とは?~"独りよがり"の起業にならないための捉え方~

~実は起こす事ではなく起きる事?~

 

起業とは、事業を起こす事だと思っていました。

しかし、そうではないかもしれないことに気づいた気がします。

 

起こす事と考えると、プロダクトアウトになりがちで、起きる事を想像し、その中心の役割を担うように考えるべきだと思うようになりました。それを表現すると「起きる事」です。

 

でも、起きる事は、その役割を担う者が現れなければ起きなくなる。その意味で起こす事になると思うのですが、この観点を忘れない事でやるべき事が明確になり、同時に撤退ラインも失敗基準も明確になります。

 

起業家のような積極的思考の人からして、「起きる事」という表現は受動的で抵抗があるかもしれません。しかし、それぐらいでちょうどいいんだな、と。どう受動的に考えても自分の創意工夫を入れたくなるのだから。

 

ただ、実際小さなところで仕掛けはできて、自分の理想を少しずつ注入できる、それがフィーチャーされるとイノベーションを狙って起こしたように周りからは見える。そうやってiPhoneのようなプロダクトはできたのではないかと思います。

 

起きる事に向き合うから、「人を変えよう」ではなく「人に気づいてもらおう」だけで十分である事がむしろ事業になり、だから共感できる人がいて助けてくれるのではないかな、と。例えばiPhoneもそうだった。「これいいでしょ?」という製品がとても良いと思ったから皆が買うようになった。決して人の趣味嗜好を変えたわけではない。

しかし、その細部に宿る機能のひとつひとつは明らかに人を変えた部分がある。

 

「人を変えよう」はあまりにも無謀なことで、それをがむしゃらにやるのでは、うまくいかないと思えた話。「変える」と「気づかせる」は大きな困難の隔たりがある。

 

まず、「気づかせて」「変える」という順番がとても重要だと。

アントレプレナーシップ(起業家精神)とは

起業して1年強が経ちました。この経過期間だけには何の価値もないと思っていますが、「起業」というものに感じたことを書き記しておこうと思います。

 

私は、中学2年生の時に、20年後に社長になっていることを目標に決めました。

もしかしたらその前からかもしれませんが、ありがたくも中学校で「20年後の夢」というのを書くきっかけがあり、明確に記憶に残っています。


そのきっかけは、他愛もないことでした。

当時、「お金がない」というドラマのエンディングが大好きで、あんな社長になりたいと憧れたがきっかけと記憶しています。今からするととても浅く、恥ずかしいレベルの思考ですが、それが残念ながら事実のようです。

 

そして、20年後の34歳になり独立をしました。そんなに綺麗なストーリーではなく、もう猶予がないというとこまで来て選択肢がなくなったというのが真実です。何れにしても目標通り、社長になりました。と言ってもスタートですが。


今から考えると、結果的に浅かろうが、とても良いきっかけを感じることができたことに感謝しつつ、そこに現れる決定的な自分自身にある危険因子も気づけるきっかけであったとも考えるようになりました。

 

その危険因子とは「虚栄心」です。

 

お金持ちになりたい、尊敬されたい、誰かにとって唯一無二の存在になりたい、という想い。おそらく当時いろんな劣等感を感じていた自分はそれらを覆す方法として「社長」という目標を考えたのだと思います。

 

私は、成功する社長像というのをこの20年間で追い続けました。いろんな本を読み、思考し、活躍されている社長とお話をさせて頂く機会やお仕事させて頂く機会を得て、徐々に、ぼんやりと私なりの理想像を固めてきました。

 

それを、一つの言葉で表すと、
アントレプレナーシップ起業家精神)」です。

 

アントレプレナーシップは、いろんな解釈がありますが、私は以下のように考えます。
「世の中をよくするために、自らが主体となって、解決策を模索し、新たな事業を開拓し、実施する精神」といったところでしょうか。


ただ、私自身は「起業家精神」の定義が完全に正しいかどうかは、どうでも良いと思っています。何が正しいと定義するのは非常に難しいです。それについて、ああだこうだ議論することは全く有益だと思えませんので、間違ってなければすべて正しいくらいに考えています。

 

そして、何が間違っているかを確認するのは、多くの場合、結構簡単です。

起業家精神とは、"○○"の精神です」の"○○"に当てはめればいいのです。

例えば、「起業家精神とは、"お金持ちになりたい"精神です」は、誰もがおかしいと感じるでしょう。


お金を稼ぐことは決して悪いことではありません。
劣等感を感じることも、
悔しいと思うことも、
見返してやりたいと思うことも、
何かを成し遂げて評価されたいと思うことも、

決して悪いことではないと思います。

 

しかし、起業家精神では、
お金があろうとなかろうと、
評価されようとされまいと、
味方がいようといまいと、
世の中をよくするためにすべきことをするのです。

 

なぜ、独立するのか。
なぜ、サービスを創るのか。

なぜ、その仕事を受けるのか、または断るのか。
なぜ、その対価を得ようとするのか。
なぜ、上場を目指すのか、または目指さないのか。
なぜ、資金調達をするのか、融資を得るのか。
なぜ、社員を雇うのか、または雇わないのか。
なぜ、会社の環境をよくしようとするのか。

 

全ては、お金を稼ぐためでも、見栄をはるためでもありません。社会をよくするためです。そして、社会をよくするためにお金が必要になります。信頼を得るために評価されることも必要になるかもしれません。

 

ちょっとしたことかもしれませんが、このゴールが逆転した時に、いろいろ破綻すると考えます。よく考えれば、起業家のほとんどはそれがわかっているはずだと思いますが、ふと過ちをおかします。

 

気持ちは、起業家としてまだまだ未熟な今の私でも分かるつもりです。

時には事業の可能性を否定され続けながら、
または存在を無視され続けながら(無視する側はそう思っていないのですが・・・)、
サラリーマン時代に背負っていた信用されている企業の看板を外したギャップで感じる劣等感を感じ続けながら、

少しの失敗から一瞬で事業や会社が吹き飛ぶ恐怖と戦い続けながら、
多くの起業家は成功を信じて事業をしていると思います。

 

だから、

「ようやく認められる時が来た」

「そろそろ評価してもらいたい」

「もう楽になってもいいのではないか」

と思いたくなるのは当然なのではないでしょうか。

 

上述の通り、社長になりたいきっかけが不純な私も、例に漏れず、間違いを犯しそうになります。そのため、少し慣れないことをすること、またはしないことを決断するときは、以下の自問をします。

「それは、社会をよくするために必要なことか」
「それは、自分が見栄を張るための決断ではないか」

これを明らかに誤る決断をしたときが、起業家を引退したときだと考えます。

 

日本では「ベンチャー企業」や「第二創業期」と称する大きな会社があります。もちろん、そう称したい気持ちはよくわかりますし大事なことです。しかし、それが真実かどうかは、そこに起業家精神があるかどうかではないかと思っています。小さな会社であってもそれは同じです。小さいから「スタートアップ」「ベンチャー」というロジックは成り立ちません。

 

その判断は、社員であっても評価は難しいでしょう。

でも、明らかに違うことがわかる瞬間は、この旗をふる中心の経営者が、間違いの起業家精神を口にする時ではないかと思います。

 

起業家精神とは、"○○"の精神である」

このフレーズが、真実を映してくれるのではないでしょうか。

 

いつか間違ってしまうかもしれない、いつかそういう人が経営陣にいることを正当化してしまっているかもしれない、そうなった時に正しい決断をできないことがすべてを終わらせることになる。そう思うのです。

間違った精神を持ってしまった瞬間に、誰であっても、どんなに優秀であっても、どんなに功績を残してきた人だとしても、その場に留まることを許されてはならない、それがベンチャー企業と称する会社の経営者だと思います。

 

私自身は、虚栄心に始まっていますので、起業という活動を通して感じたいろんな悔しさがなければ、これに本当の意味で気づけなかったのではないかと思っています。もし、サラリーマンのまま社長になってしまっていたら、排除されるべき側の経営者になっていたかもしれません。

 

そう考えると、今、生じる困難や壁は、すべてがとても有難いものに思えてくるのです。すべてを賭けているからこそ、その一つ一つの想いに真剣に向き合えます。

 

これが、私が感じ、体験した「起業」です。