12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

起業家にとって大切だと思う『欲求を”ねじれさせる”力』とは?

起業家にとって、欲求を”ねじれ”させることが必要である、と考えています。
これについて、本日書いてみましょう。
 
マズローの欲求5段階説は、当然、ご存知の方や聞いたことがあるという人も多いでしょう。ただ、6段階目の「自己超越」については初耳の方も多いかもしれません。私も少し前まで5段階までしか知りませんでした。
 
 
 この欲求5段階説に対して、起業家という生き物は、強い意思と熱意と力で、一般的な三角形の形を”ねじれ”させ、逆三角形を作り上げてしまうもの、また、そうあるべきだと思うようになったのです。
 
※ねじれと言う表現が適切かというと難しいのですが、すでに発生している欲求と、実際の行動の紐付けを変えていくという意味で、ねじれと言う表現を使って説明しています。
 
・起業は、欲求ピラミッドを反対から捉える!?
 マズローは、低次の欲求が満たされると高次の欲求を求めると言っています。つまり、生理的欲求(食べたい、飲みたいなど)が満たされると安全欲求(健康になりたい、安定したい)を、次に社会的欲求(どこかに属したい、孤独になりたくない)、さらには、尊厳の欲求(尊敬されたい、認められたい)、自己実現の欲求(創造的活動をしたい)を、最後に、自己超越(社会貢献したい)、とステップアップしていくということです。
 
 しかし、多くの起業家の成功事例や書籍から学ぶに、これらが逆から始まっている人が多いように感じます
 
つまり、
 誰かを助けたい!社会貢献したい!(6段階目:自己超越)↓
 その中で創造的活動ができれば(5段階目:自己実現
 認められるのはその後で良い(4段階目:尊厳)
 正しいことをやるためにどこにも属する必要はない(3段階目:社会的)
 
というイメージです。つまり人間の本来の欲求と優先順位がねじれるわけですね。
だからこそ、いわゆるサイコパスのような、ある種目の前の目標に狂気を持ち込める人たちが多苦なるのではないかと思うのです。
 
起業家の中にも2種類存在する!?
 上の理屈は、正しいのかはわかりません。ただ、私自身、日々苦心しつつ、事業の立ち上げに奔走している中で、今では絶対に正しいと信じれるほどに至っています。この正しいは一般的にとかではなく、自分の理想として、という意味です。
 
 例えば、起業家は目立つために何かをしようとするべきではなく、社会に必要とされるべきだと思っています。これは、つまり4段階目の尊厳の欲求を抑えて、6段階目の自己超越を優先することになると思います。
 
近年、日本にも多くのパワフルな起業家がいますが、そのうちの何割かの人たちは尊厳の欲求から事業を起こしている人がいるように思います。話を聞いていると、もちろんその意思力や強い気持ちは尊敬するのですが、どこかあまり心を打たれない気がしてしまう、そんなご経験ありませんでしょうか。何が違うのか、その時はあまりよくわかりませんでした。
 しかし、後々、そう感じる大体の人が、安全欲求(楽して稼ぎたいとか)や尊厳の欲求(有名になりたいとか)が前面に出ているのだと気付いた時、私の中では腑に落ちた気がしました。
 
・"ねじれ"を維持するには、努力が必要
 私は人間は放っておくと、元のピラミッドに戻る力に負けてしまう気がします。だから、日々このピラミッドを逆三角形に無理やりねじれさせるよう、意識するようにしています。
 
 つまり、意思決定をする時に、迷った場合はそれぞれの選択肢がどの欲求から出ているものなのかを確かめ、できるだけ低次欲求からのものは却下するのです。
 
 具体的には、例えば、資金調達をすべきかで迷った時、その目的の根本をたどってっどの段階の欲求から発生しているか確認します。そして、それが「早く売上をあげたい」「認められたい」「(辛いから)仲間を雇って安定したい」などにある場合、私の中では、その選択肢は取るべきではない、となるのです。
 
特に重要な意思決定などにおいて、選択する施策の背景には、必ず、「自己超越」の理由がなければならないのです。
 
・もしかしたら、大きな企業でも同じでは?
 これを、起業家の、という風に書いてきましたが、実はどこの企業でも同じだと思っています。例えば、大企業病というものは、このピラミッドを低次の欲求で完結させてしまう病であると思うのです。
 
 そう考えると、起業初期だけでなく、これを何年持ち続けられるかが、重要だし、そういう意思決定の実践を経験していくのは重要なことではないかと思うのです。
 
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これだけ意識していても、放っておくと誤った選択肢を取ってしまいます。
保有している欲求を捨てることは、恐怖やストレスになるのが普通なので当然です。成長のフェーズで失敗することがあるとしたら、どこかでこの逆三角形ピラミッドの維持を意識的か無意識的かに関わらず止めてしまうことでないのかと思うのです。
 
時には敢えて、その選択肢を取らざるをえない時もあります。しかし、それでも「最良ではないこと」を意識しながら意思決定をしていくべきだと考えています。
 
こういった理由から、起業家にとって欲求を"ねじれさせる"力は大事だと思うのです。

「世にありて、おもしろくなきことを、おもしろく。」

私が好きな言葉の一つに「おもしろきこともなき世を、おもしろく」という高杉晋作の詩がある。この詩は色々な解釈があるらしい(実は「おもしろきこともなき世"に"」だったなど)。

私自身は、ストレートに捉えて、「面白いことがない世の中を、自分の力でおもしろくしてやる」、という意味と捉えて、その生き様を想像し、好んでいます。

 

しかし、よく考えれば、この歌、少し、違和感がありませんか?

 

というのは、時代が違うからなのでしょうか、現代では「この世はすでに面白い」のです。なので、好きだけど自分の行動を変える歌にするためには、少し変えなければならないな、と思って、以下のように言い換えてみました。

もちろん、誰の許可もなく。笑

 

「世にありて、おもしろくなきことを、おもしろく」

 

この言葉にはいろんな意味合いが詰まっています。以下のようなところがポイントです。

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今の自分を「捨てない」という決断は、今持っていない方の選択肢を「捨てる」ことにすぎない

何かこれまで築いてきたものを「勇気をもって捨てる」ということを、「スゴイ」という人がいる。
でも、これって反対からみたら、同じことだと考えてみると、納得は早いと思う。

 

タイトルの通りだが、

 

今の自分を「捨てない」という決断は、今持っていない方の可能性の選択肢を「捨てる」ことにすぎない

 

これに気づいたら、尻込みしている必要はなくなる。
これでも、「捨てない」と言い切れる人はスゴイ。

だって、人生で最高に理想的な生き方をしてきたということだから。それはそれで誇ればいい。

 

もっとも、できるかできないかで悩んでいるんだとしたら、自分に対して謝るべきだ。自分を卑下しすぎている。
なぜなら、まず、そう悩む時点で、その人は自分や自分が置かれている環境が少なくとも好きなはず。ということは、自分には今の自分を作ったという功績がある。
それがまぐれじゃないことを、もう一度証明すればいいだけだ。

 

いや、まぐれだったんだ、と思っている人は、まぐれじゃない世界は、たとえ今より不自由でも、もっと面白いということについて、否定しきれるか問答をやってみればいい。
絶対、否定できないから。だって、本当にそう思っているとしたらもう一つの世界を知らないということだから。

 

ということは、もう一度まぐれをつかみたいと思っている人以外、捨てられない人はいないはず。

 

視点一つで、自分の世界は変えられる。
最も大事なのは、「何をやりたいか」

捨てるか迷う時間は捨てて、やりたいことを考える時間に回そう。

 

どんなに自分が成長した先にも、この気持ちは持ち続けていたい。

オリンピック=夢追い人たちの伝記集。

Jリーグは見ないけど、日本代表戦は見る。海外で活躍する日本人選手のニュースは見る。

プロ野球は見ないけど、甲子園は見る。大リーグに行った日本人選手の活躍は見る。
ボクシングが好きというわけではないけど、タイトル戦は見てしまう。
柔道、水泳、レスリング、普段見ないけどオリンピックは見る。

 

結構多くの人が、そうなんじゃないだろうか。なぜなのかな、と漠然とは思っていたけど、あまり真剣に考えたことはなかったかもしれない。

 

ただ、今回、オリンピックを見ていて、「あぁ、なるほどな」と思った。それは、こういう共通項があるからだ。

「頑張ってきた人の夢が実現する場、瞬間がたくさん見れるから」

 

おそらく、そうなのではないかと思う。
多くの人が、選手の夢の実現に感情移入し、我が事のように疑似体験し、楽しんでいる。だから面白いんだと。

もちろん、プロ野球Jリーグも同じだと思う。好きな人はとことん知って、長い間見続けることでファンとして夢の実現を見届ける。
ただ、甲子園や日本代表戦などの方が、情報が入りやすく、簡単に入り込めるので、多くの人が好むのだと思う。
世界中の人が、国籍関係なく、成功した人間に、感情移入をし、賞賛し、尊敬し、それを感じられることを幸せに感じる。

面白いことに、活躍したオリンピックの選手たちの発言やストーリーがどんどん出てくる。
これによって、感情移入をしやすくなるが、そうすると自分と重ねることになり、いろんなことを考えさせてくれた。

特に、夢に向かって努力をする象徴として見ていた時にどことなく漠然と考えていた、夢実現のために必要なことがやはりビジネスであろうがスポーツであろうが共通しているとすごく思った。

その感動を忘れないためにも、今回は文章にしてみよう、と思う。

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■「夢を実現するために必要なこと」
夢を実現するために、何かを持っていないといけない、とか恵まれていないといけないとかは基本的にはない、と思った。もちろん、それらは結果的には関係しているだろう。ただ、夢の実現ができない言い訳には一切ならない、というかしない。その時点で自分に負けているのだから。

単純化すると、必要なものは、一つだけ。「捨てる」こと、と言ってしまってもいいかもしれない。

多分、スポーツ選手自身は「捨てる」と考えていないかもしれない。なぜなら、人生のほぼ全てが夢に捧げられているので、そもそも捨てるようなものを持たないようにしているから。
「やらないと決めていること」くらいの感覚なのかもしれない。

ただ、そこは一般人に置き換えると、これまで手に入れてきたもの、今、守らなければならないと思っているもの、それらを捨てなければならない。
例えば、それなりに大きな企業に入って、何年も頑張ってきて、今のポジションをやっと手に入れたと思っているなら、それ。
安定した生活、安心できること、小さな贅沢、変化しない生活、苦労から逃げること。
最後のは、結構きつい。みんな苦労から逃げているとは思っていない。「それなりに頑張っているよ。苦労も人並みにしてるし。」
そう、だいたいみんな気づいてる。それ、苦労じゃないって。だって人並みだから。ただ生きている、しがみついているだけ。残念ながら、それは苦労でも努力でもない。

ただ、本当に努力をしている人は、自分では努力としては語らないらしい。
人が認めるものを努力と考えており、自分が努力をしてきました、ということは決して言わない。なぜなら、それ以上の苦労を現在進行形でしているから過去のものをもはや苦労とすら思えない、というようなことなんじゃないだろうか。

■「捨てる対象」に一貫性が必要
なんでもかんでも捨てればいい訳じゃない。捨てる基準が必要だ。それは自分の弱さを知ることで見えてくる。
簡単に見つける方法としては、「捨てたら、しんどいな」と思うものなのではないかと思う。

例えば、もう一度手にいれ直せと言われれば、できないとは思わないけど、大変と思う、それかもしれない。
例えば、運が良くて手にいれられたと思っているものがあるとすれば、それかもしれない。

逆に、取りたくないと思っている保守の選択肢も対象に入れなければならない。例えば、明確な目標を立てて英語を勉強すること、数学の勉強をやり直すこと、それら「やらないという選択肢」も「捨てる」対象だ。
スポーツ選手はそうやって、全て夢・目標がスタートとなってており、自分の欲求を先行させないようにしている。
欲求は脳や体が求めるもの。でも本当に欲しいのは自分が欲しいと決めたものという感じだろうか。
これができている状態を、「覚悟を決めた」というのではないだろうか。

■「捨てる対象の選定とタイミング」
ここまで来れば、あとは捨て方が重要だ。捨て方(対象の選定とタイミング)を間違えてはいけない。
例えば、一流の会社に就職できた人がその事実を捨ててみようと思う時、会社を辞めることとか仕事を変えることが唯一の選択肢ではない。えいや、で捨てても何も残らない、だろう。

なぜなら、その思いには、大義がない、どこに向かって捨てるのか、対象が不明だし、芯がない。人に説明できない。そんなの続くわけない。
なので、そんな捨て方をしたら、少しして我にかえり、のこのこと拾いに行くことになる。もっとも惨めなやつだ。

では、どうしたらいいのか。捨てることの覚悟ができたら、捨てることは手段であることを思い出す。それは決して目的ではない。

そのために、問いただす、「私は、1年後死ぬかもしれない。死んだら記憶も何も残らない、とする。あなたの人生を、家族や同僚や後輩はあなたの葬式で語ることになるだろう。さて、あと1年で何をやりたい?」

そこで浮かんだもの、それをやることをまず決断する。スポーツ選手は、それぐらい、人生をその夢や目標にかけている、と感じた。

■「決断すること」
人間には、習慣化されたものは無意識にできるという能力が備わっている。無意識にしてしまうと言った方が正しいかもしれない。
そして同時に、意識的に決断することにものすごく疲れる生き物でもある。だから、ほとんどの人が重要なことを実は決断していない、と思う。

しかし、スポーツ選手は違う。夢や目標に人生をかけているわけだけら、踏み出す一歩のほとんど全てを自分で決めている。
誰かがやっているから、皆がそうだから、という理由で大事な決断を極力しない。食事、練習、人との付き合い方、人に対する評価。
特に、人の評価は感情ではしない人達が多いと思う。自分で作り上げた物差しで測る。だからそれに上下はなく、単に長いか短いか、でしかない。

そのようにして、自らが言い訳する余地をことごとく消していく。
捨てるとは、そういう逃げる場を探し出し、片っぱしから潰すことなのだと思う。

本当に大事なことを意識を以って、決断する。そして、決断した、と宣言する。
「あれ、決断したんだっけな?」みたいなことにはしない。決断して、それが成功したか失敗したかをきっちり残す。

■そして、実行する
そして、計画通りに実行する。
その際に、人間は無意識に逃げてしまうことをよく知り、だからあえて「〇〇から逃げない」と明確に土俵にあげてあげることが必要だ。

具体的には、目標と覚悟が決まれば、捨てることリストと照合する。それが人にとっての逃げたいことリストだから。
その中のどれかが、自分の夢の邪魔をしているぐらいに考えて間違ってないかもしれない。それに気づくと、ようやくその罠から少しそれることができる。
あとは、それをやるだけ。捨てたものは2度と自分からは拾わない。

本当に相応しい人間だったとしたら、きっとそれらは戻ってくると考える。きっと何倍にもなって帰ってくる。
ここで感銘を受けた話。リオで4連覇を果たしたレスリングの伊調選手は以前大きな大会の決勝で負けて銀メダルになった時に、お姉さんから「惜しいね、もう少しで金メダルだったのに」というようなことを言われて次のように返事したらしい。
「内容がダメだから、たとえ取れても、その金メダルは嬉しくない」という。この記事を見て少し震える感じがした。単に勝つではなく、本当に勝ち続ける思考を持った人だと思った。

自分が努力して相応しい人間になれば、結果はついてくるし、ついてこなくても満足できる、なぜならそれが自分の限界だから。
これがつまり自分を信じれるかということなのだと。
だいたい、努力が切れる原因は決まっている。「期待>結果」が確定したタイミングだ。期待のタームと内容を最後に決めているのは実は自分自身なのだけど。
普通の人は、「ほら、頑張っても結果でないでしょ」と思うが、一流の人は違う。
なぜなら、目標立案から達成までの分析と計画を全て自分が決めてきているので、「まだ結果がついていないだけ。自分に足りないものが見つかった。自分の努力が足りないから修正しよう。さあ次へ」と考える。
その否定は、人生全てを否定するので、本当の努力をしてきた人はそこに疑いはもつ必要がない。やるのは反省だけ。

逆に、自分の努力によらない結果は、自分に相応しくないので望まない。つまり、結果が全てという人もいるが結果を出すことのプロセスを含めて全てコントロールするのだ。その上で結果を受け入れる。
特に今回メダルラッシュになったのが、個人種目が多かった(団体種目も、個人ごとの結果がはっきりする種目)ので、そういう個々の意思の強さや凄さを感じた。

これを世の中のサラリーマン社会に置き換えて考えてみた。
もし、こんなスポーツ選手チームのような会社があったら恐ろしいだろうな、と。

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以上が、今回、オリンピックを見ていて、考えさせてもらったことである。

オリンピックは、スポーツは、本当に学ぶところが多い。夢を追う人たちの伝記をたくさん読んでいる感じがした。


自分自身、色々捨ててきたつもりでいたが、全然足りないな、と感じた。

魅せてくれたスポーツ選手、また、その舞台に立てなかったその世界を支えている選手の方々、それらを支える立場でいろんな犠牲を払ってきた方々に感謝したい、と素直に思った。

ありがとうございます。

「楽をすること」と「怠慢」は違う、という話。

みなさんは「楽をして生きていきたい」という言葉を聞くと、どこかネガティブな言葉に感じませんか?でも、私は もっとポジティブに捉えたい言葉です。今日はそんなお話です。

 

「楽(らく)=ポジティブ」

「楽をする」ということは「サボること、努力しないこと」のニュアンスを含んでしまいますよね。でも、いろんな見方で、この言葉のニュアンスを捉えてみましょう。

楽という感じを分解すると、木の上に大の字になっている人がいるように見えてきました。白というのは安全ということを表すのではないかと思います。と考えると、この人は、木に登る努力をして、休んでいるんですね。

 そうすると、「楽」という字がポジティブに見えてきませんか?

  

「怠慢」を考える

一方で「怠慢」という言葉を考えてみましょう。なぜ、人は「怠慢」になるのでしょうか?おそらく、多くの人が「楽をしたいため」なのではないでしょうか。

ただし、私個人としては、これまでの人生の中で、怠慢になって得をした記憶は全くありません。楽をした気になるのは一瞬で、その後、負い目や後悔を感じ、結果、怠慢になるよりも、「苦」しい状態になると思うのです。そうです、楽の対義語である「苦」に近い言葉と思っているのです。

 

ではさらに、「怠慢」をより鮮明に意味分類するために「休憩」という言葉を利用しましょう。

 

「怠慢」と「休憩」の違いとは

私は、この両者を目的の違いで分けます。「怠慢」の目的は不明瞭ですが、「休憩」は次の努力のために、意識的に休む行為です。ベクトルは次の努力や頑張りに向いています。しかし、怠慢はそうではありません。今の頑張りの辛さから逃げることが目的になっていると思うのです。

 

ちなみに、怠慢は全てを腐らせる力を持っていると思っています。本当に怖いです。大体、30代頃から人としての成長が止まってしまう人の多くの原因がこれだと思っています。

さて、少し話がそれてしまいましたので、「楽をする」と「怠慢」の違いに戻しましょう。

 

「怠慢」は逃避であり「楽をする」は努力の積み上げの先である

「楽をする」ということは、創意工夫や根回しや事前努力や仕組化により、気を張らないでよい、少ない労力で大きな成果を得られる状態を作ることだと思うのです。木に登るという少しの努力をすることで、外敵から安全になり、楽をすることができるのです。

この前提で、「楽して生きていきたい」「楽な暮らしをしたい」と言ってみると、どうでしょう。少しポジティブに聞こえるのではないでしょうか。

 

結局、何が言いたいのか(笑)

ここまで議論してきましたが、正直、私はそんなにちゃんと使い分けてるわけではありません。ただ、伝えたかったことは、同じように思える言葉や行動でも、少しの意識の違いによって、全く異なったものになる、ということです。

 

従って、私は表面的な言葉や行動や事象は、それほど重要なことでないと思っています。政治家の失言や、有名な方の失敗を大きく取り上げる社会になってしまってますが、本当に重要なことは、本質を見抜き評価・反応することであり、表層に惑わされることではないと思います。

しかし、人がたくさん集まれば集まるほど、ほとんど表層的な側面で判断されてしまうようです。もったいないと思ってしまいます。大企業病とは、この症状の現れ方のものだと思うのです。

 

「独立・起業」と「本質的なこと」の距離

しかし、私は「独立・起業」することがイコール「本質」に近くなることだとは思っていません。むしろ、遠くなりそうなこともあります。例えば、生きていくためには、自分が適切な価格にまで落としきれていない未完成のサービスを売らなければなりません。これは、本質的なことではありません。

しかし、私はそういう場合には、本質に近づけるよう最大限の努力を行い、何れその時に、恩返しができることだけを信じ、最低限周りに頼りつつ、できるだけ本質を見失わないように強く意識するようにしています。誰も言わないでいてくれますが、「借り」を作っていることを心に刻み込む、のです。

つかみどころが難しいのですが、これを失ってしまうと、おそらく全てを失うことになると本気で思っていますし、逆にこれを守り続けられれば、本当にやりたいことが実現できるようになると信じています。

 

そして、実現したいこととは、皆がそれぞれの努力の上に成り立つ「楽ができる社会」です。

 

その実現を目指して、これからも頑張っていこうと思います。

「誕生日のメッセージを送ろう!」っていう機能

これは、本当に個人的な意見です。そして多くの人にとって、どうでもいいことです。

多分、私自身が未熟だから、考えることだと思うのですが、、、

 

SNSで誕生日を祝いあう文化に、慣れられません。

 

もちろん、それを祝う人、祝われる人を否定する気は一切ありません。

自分自身も過去には、それによって久しぶりに連絡を取ったりすることがあったりしたのも事実です。でも、それがある時から自分は気がひけるようになり、その頃から、SNSで誕生日表示を消しました。

 

気がひけるようになった理油は、こうです。ある時から、誕生日で祝ってもらうたびに「自分は、まだ何も成していない」と思うようになってしまったのです。

誕生日を祝われること自体は、嬉しいのは事実です。わざわざ覚えていてくれたとか、誕生日プレゼントを選ぶ努力を、自分なんかのためにしてくれた、ということはとても嬉しいことです。ただ、同時に自分を焦らせられる感じもするようになりました。

リアルな生活の中で人を祝うタイミングがある時は、あまり深く考えず、心から祝うようにしています。これは信じてもらえないでしょうが、本当です。ただ、SNS上では祝うことは少なくともできなくなりました。祝われることも、返すことが表面的になってしまうと思うので、誕生日は引き続き表示してません。

 

SNSのあのお知らせが、来るたびに、自分の中で反骨心が顔を出すのです。正直に言うと、最初はあのお知らせが嫌いでした。

見るたびに、何かそれよりも祝うことがあるんじゃないか、と。誰かが、苦労して何かを作り上げた時、今までできないようなことができるようになった時、長年の労力が報われた時とかを祝うべきでは、と考えてしまうのです。だって、誕生日が祝われている人がいる横で、祝われもせず、必死で頑張り続けている人がきっといるはずなんですよ。とか、その理論を補強する正当化仮説が次々と湧き出てきます。

それを考えてしまうので、祝いたい気持ちがあってもできなくなりました。しかし、それは、祝うことがダメとかでは決してなく、それを祝わないことで自分自身のそれ以上に大切なものを強く意識できるという、ごく個人的なマインドコントロールのためのみが理由です。それに利用するようになったのです。本当に嫌な奴ですが、そこをあえて。

 

結果、こういうことを考えるようになって、実は、あのお知らせ機能が好きになりました。なぜなら、ほぼ毎日誰かしらの誕生日が来るので、私は毎日思い返すことができるのです。

 

「自分は、まだ何も成していない、頑張らなければ」と。

 

ただ、今はそこからメッセージを送るまで行かず、ここで処理ループは終了(break;)するのです。何分、未熟者なもので。多分、そこで並列処理をすることは簡単なことなのですが、祝わないことで発生するマイナス(誰も気にしていないことが分かりつつも感じる罪悪感)よりも、それを蓄積することで将来生み出せるだろうプラスを溜めたくなったのです。自分では、職業病の一種と考えています。

 

SNSさん、ありがとうございます。そこまで見越して、そのお知らせ機能を作ってくれた高尚さには脱帽です。笑

早く、この呪縛から解き放たれて、何も考えずに、お祝いを言えるような真っ当な人間になるために、今日からも必死で頑張ろうと思います。

スリルが楽しくなり、無謀なことを可能にするたった2つの短いフレーズ(関数)

これは、今の私が最も大事にしているフレーズです。
どれくらいかといえば、仮に自分の子供に他に何も教えられなくても、これだけ教えられればいいかな、という究極の一言ぐらいに思っています。

 

■いつからか信じるようになっていた1つ目のフレーズ

いつ頃からかは覚えていないですが、ある時から信じるようになっていた言葉です。起きていることが全て自分のためなんじゃないかと。これが1つ目のフレーズです。

 

「今、起きていることは、すべてあなたのために起きている」

 

もちろん、それでは説明つかないような悲しいことや苦しいことも世の中にはあると思います。例えば、身近な人が亡くなるということを、「自分のため」という表現をすると不謹慎ですし、もちろんそういう意味ではありません。

人生には悲しいことや苦しいことも当然あって、身近な人が亡くなること一つとっても、色々考える機会になるし、人の存在やそのありがたさを感じ、その他にいる大切な人たちを大事にしようと思えるきっかけになると思うのです。

そういう風に、起きた物事全てを深く捉え、その影響力を俯瞰してみることで、いろんなことを乗り越えられる、という関数みたいなものがあるのではないかと。これを、すごく端折った表現でいうと「自分のためと考えること」と考えるようになりました。
そう考えていないと、その時に感じるべきこと、考えるべきこと、経験すべきことを漏らしてしまうような気がするのです。

どんな辛いことでも過去に起きたことは変えられないし、この先起きることも避けられないこともあるでしょう。


しかし、我々はその中で生きています。そこに嘆くより、そこで何をするか、どう頑張るか、だと思うのです。世の偉人と呼ばれる人たちは、共通してこのフレーズを関数(※)的に使っているように思えるのです。この関数は、そういう意味ではオープンソース化までしています。いろんな偉人や成功事例が、この関数を補強し、補足し、説明しているように思えるのです。

 「それは自分のために起きたことなんだ」と考えると、すべてがポジティブシンキングになります。ものすごく楽になります。他責にするという近代的人類の愚かな発想トレンドに距離を置けます。場合によっては、人のせいばかりにしているのではなく、自分が迷惑をかけたことに気づき、謝りにいくこともできるようになります。

 

この関数を通すと、

今、楽しいことがある人は、あなたのために起きています、存分に楽しむことがあなたの使命であると考えられます。

今、つらいことがある人、それもあなたのために起きています。何に気づけるか、その中で何ができるかを考えてみましょう。ちっぽけな自分を想像して、嘲笑してみるのもいいでしょう。「つらい」という経験を全うしてください。

という風にインプットが何であれ、ポジティブな戻り値が返ってきます。

 

この関数で説明すると、このようなことも言えます。
後悔は「後で悔やむこと」ではなく「悔やんだ後ですること」と考えましょう。つまり、後悔の念に逆らわず、「反省」という流れに置き換えるのです。

失敗した、ということを考えて恥ずかしくなったとき、もっと失敗している人にまだその数で負けていて中途半端な自分にも気づくこともできます。もっと失敗してみるのはどうでしょうか。と神様が思ったら、そういう風になるでしょう。

また、一見、自分には関係ないと思って流してしまう物事、例えば、会社で〇〇さんがこういうすごく残念な理由で辞めたらしい、ということがあった時、この関数を通すと、なぜ、自分の周りでそういうことが起きたのか、自分にできることは何があって、どう自分の成長につなげられるのか、と。

 

私は、この「すべては自分のために起きている」ということに気づいたとき、多くの恐れていたものから解放され、多くの他責逃れから意識を戻せるようになった気がしています。

 

■セットで使える、2つ目のフレーズ

しかし、最も辛いことに直面している瞬間は、どうしても否定したくなりますし、そう捉えられない瞬間になります。だからこそ、辛い事なのですから。

 

そういう時に、2枚目のカードがあります。上の言葉と表裏一体で、自分の信念の1つになっている言葉です。

それは、「どんな試練も、乗り越えられない人には与えられない」という言葉。

こちらは、1つ目と比べるとあまりオープンソース化されていないように感じます。捉え方によると、上から目線で選民思想のような冷たいニュアンスも捉えられるからでしょうか。一人称を表現するときに使いにくいフレーズだからと思っています。

 

しかし、これは、特に辛い事に直面して気持ちが底を打っている瞬間はすごく効果的です。辛い事が起きると「なぜ自分だけこんな思いをしなければならないのか」と感じると思うんです。周りの人皆が辛い事ならば、それはなんともない事になるので、当然です。私も本で読んだだけですが、アドラー心理学というものがあってその考え方では「人間の悩みは全て対人関係の悩みである」と言われているそうです。つまり、人と比較して差を見つけることによって、悩みが生まれるからです。

 

そういうこともあってか、気持ちが底の時に、先の「試練は乗り越えられない人には与えられない」という、ちょっと強めの関数が、状況の符号をマイナスからプラスに変えてくれます。対人関係で生じる差については否定せず、符号を変えるのです。例えば、「他の人にない、成長のチャンスが目の前にあるという事か」といったような。

 

私自身は、この2つのフレーズ(関数)を信じれるようになったから、もしかしたら今の独立という選択肢が選べるようになったのかもしれないと思っています。

 

※関数という表現は、数学好きの人かExcel使い手かエンジニアでない人には馴染みのないものかもしれません。ただ、私の中では、物事を応用するとき、様々なことから共通事項を見つけ、変動するものをパラメータ化することで、どんなことにでも対応できるということを的確に表す表現でこれ以上、短くて的確に表せる言葉が見つからなかったので、関数という表現にしています。わざとそういう表現にして遊んでいる意味合いもなくはないですが、この表現は自分の中で結構意味があると思っています。