12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

進捗は週単位、成長は月単位

これは、今の立ち上げ期だからなのかもしれませんが、ここ数ヶ月でなんとなく意識しているモニタリングスパンがあります。
業務にもよるし、立場にもよると思いますが、いずれ、業務や立場が変わってしまった時の備忘録として書いておきます。

 

■進捗は週単位、成長は月単位
書いたままなのですが、現在、何かを進める、前に進んでいるかどうかを判断するのは週単位になっています。
日だと、短すぎて、作業は進んでいてもプロダクトが進捗しているかわからないことが多い。逆に1ヶ月単位だと、色々増えすぎて、記憶の中だけだと管理が曖昧になる気がしています。

なので、週単位。

週単位で見ると、徐々に機能が増えていくことがイメージできて、それぐらいであればほぼ記憶の範囲でコントロールでき、かつ、次の週の予定も立てやすいためです。

あと何週で、こういう機能を作ろう、とか、そういったことが最もしっくりきたのが、週単位。3日、4日とかのスパンでも考えられなくはないけど、周期のカウントが難しいため、やっぱり週単位かな、と。

この感覚でブレが起きていなければ、比較的思った通りに進められるという感じがしています。


一方で、成長を感じるというのは、この時点では、こういうことができなかったけど、こういうことができるようになっている、というもの。
これは逆に週だと、イメージつかないことが多い(ムラがあって、成長曲線がイメージしづらいプロットになってしまう)感じがしています。

しかし、1ヶ月単位だと、それがある程度、連続性を持って見れている
まぁ、この点は、新たな領域で開発知識の蓄積なので、今だけだとは思いますが。

■独立vsサラリーマンの成長力
サラリーマンの時より、圧倒的にスパンが短くなっている、ということ。私の場合、これは確実。新卒の1年目と同じくらいといったらそうかもしれません。


「やっている内容が異なる」「立場が異なる」という面白くもない変数がやはり影響大きいのだろうと思いますが、「やらなければならない危機感」という新しい変数が上位にランクインしている、ということが少なからず影響している、と思います。

サラリーマンでもやらなければならないというのは同じですし、それを意識してやってきた方の人間だとは思っていますが、やらなければ、後ろ指を指され続けるとか、家族が路頭に迷うとか、借金人生になるとか、最悪生きていけなくなるのではとかの恐怖感はないわけで、それは、仮想では作り得ない類のエンジンなんだと思うのです。

なんというか、入れてはいけない危険なガソリンを入れることで、ターボエンジンを得た感じ、でしょうか。

一方、サラリーマンでは逆に「個人では体験し得ない大きな経験による成長加速」、「余裕から生まれる自由( =>仕事分野以外に幅が広げられたりする)」があるので、結果的な成長スピードは結局人次第だったりすると思ってます。一つだけあるとすると、外的要因に左右されることが大きくなってしまうため、優秀なのに成長機会を逃してしまう人はいるかもしれませんね。

慣らしてみると、「独立vsサラリーマンの成長力」の結果は勝敗つかず、かも。

■でも、結果への実感値はやはり雲泥の差がある、と思う
しかし、私個人で言えば、サラリーマンの時の実績(たいしたものはないですが)は、今となっては何一つ自分の力であるという自信は消え失せました。というか捨てたくなりました。人の成果を自分のことのように言っているように思えてきて。失敗すらもすべて埋もれて隠れてしまうわけですし。


独立すると、良くも悪くもすべて自分なので、その部分が非常に安心できます、気楽です。うまくいっても悪くなっても、すべて自分なので。多変量解析なしに、結果比較ができるという、気楽さですね。変数同士の競合も一切意識する必要がないので、当たり前か。

 

ただ、唯一、残ったことは、一緒に働いていた人が、今、立ち上げ期で奔走しているだけの、吹いたら飛んでしまう状況の自分に期待をしてくれる人がいること、です。
たまに、客観的に思ってしまいますが、「この人は、自分以上にこの事業が成功すると思ってくれているんでは?または、元気付けようとして俳優並みの演技をしてくれているのでは?」と不思議な感覚になることが何度かあります。

これは、誰にも相談できない今の立場では、唯一無二の救いの言葉になります。非常にありがたいです。これは、また違う種類のガソリンに変わっていっているような気がします。

 

■話を戻して・・・今のスパンをできるだけ長く維持しよう

このスパンをできるだけ長く、連続性を持って続けられれば、自分自身も成長し、社会に与えられる貢献度も大きくなっていくのではないかと信じたいと思っています。

結局はその自分が成長していくこと、プロダクトが成長していくことが、今は形だけの売上や利益やキャッシュよりも一番大事なのではないかと考えて週でタスク、月で成長を進めていこうと思っています。


数年後の自分は、どう感じ、どう考えているのでしょうか。「やっぱり売上死守すべきだった」となっていたくはないなぁと思いますが、なぜかそうならないだろうという楽観的な期待をしていますので、楽しみです。

 

この成長スパンに独立することとの因果関係があったとすると、サラリーマンで優秀な人たちがさらにこういう成長力を手にするんだとしたら、そういう人が増えると世の中はもっと良くなるんじゃないでしょうか、と思ってはしまいます。

ただ危険なガソリンなので、どうしても入れたいと思ってから入れるべきなんだと思いますが。

「アエテ(敢えて)」を持つ人や会社は強い、と思う

ある時、ふと思ったこと。

 
「敢えてやる」ということは、自ら主体的に目の前の事象をコントロールしてなければ出来ないことだなぁ、と。辞書的にいうと、「やりにくいことを押し切ってやる様」らしい。
 
例えば、
忙しい時に、アエテ運動の時間を確保している、
大量の雑務を頼まれた時に、アエテ手をつけずやり方を考えるのに時間を割くようにしている、
など。確かに流されている人にはできない。そしてそういう人は何かしら輝きを放っている気がする。
 
もう少しだけ、論理相関を分析してみよう。
アエテ、というのは、普通の流れに反して行うことである。ということはそれなりにパワーがいる、反論にも合う。それでもやるということは、それなりに思い入れや揺るがない理由づけがなければならないだろう。ということは、その主体者には軸や芯があるんだと思う。それ故に、これを身につけると強い(強い人は普通にやれている)のではないか、と思うわけである。
 
考えてみると、すごい人にも、強い企業には必ずアエテがある気がしてきた。
 
アエテ、プッシュ営業をしない
アエテ、失敗を褒めたたえる文化にしている
アエテ、メンバーを固定できないルールがある、
 
など。
逆に、大企業病は、このアエテができなくなっている状態と言えるかと。
これから会う人、会う企業のアエテを探してみようと思う。
 
そして、うちでも何でもいいから作ってみよう。
いや、そう考えてみると、既にあるなぁ、とも思った。
アエテ、受託開発をしないとか、
アエテ、初期は売りに走らないようにするとか
アエテ、入ってくるお金を慎重に選ぶとか、
 
(でも、うちは、まだとてもじゃないけど強いといえる状況じゃないから、上の論理と矛盾する、とかは今は置いておこう。。。)
 
まだまだあるが、これをちゃんとした組織になった時にも、アエテアイデンティティが残せるようにしたい。いつの日か、これが文化と呼べるものになるのだろうか。
 
興味を持った人や企業に、いきなり、聞いてみたらどう答えるんだろう?
「あなたの(会社の)敢えてやってることを教えてください。」
 
この観点で世の中を見てみると面白い発見もできそうな気がしてきた。
(自己満足ですが、以上)

「たられば」は重要。でも、混ぜてはいけないものがあった。 ~独立して気づいたこと~

■「たられば」を重要と考える理由。
自分自身も含め、ほとんどすべての人が、できないことを言い訳で逃げようとする、というのは事実ではないでしょうか。何か大変な作業や業務をしている時、「あぁ、この情報があったらな」「こんな人が手伝ってくれたらな」「PCがもっとハイスペックだったらな」、と。
これっ「たられば思考」といって悪者扱いされることが多いですが、私はこの心理状態自体は決して否定するものでもないと思っています。

なぜなら、これっていわゆる、ニーズや自分自身に対するクエリであり、それをきっかけに、必要情報や必要リソースをそろえ、仕事を完遂させようとし、結果的には良い仕事になると思うのです。
「もっときれいな資料が作れたらな」→「もう少しくらいならきれいにできるんじゃないか」という具合に。
つまり、こういう「たられば」を多く考えられ、次にそれを集めるステップを踏める人(アクションにつなげられる人)は、すなわち、良い仕事をする人なんじゃないかと思います。最近、私は仕事をするときに、いつもこの心の声を聴くようにしています。

 

例えば、プログラミングしていて、「こんな繰り返し同じようなこと必要なのか?そういうプラグインがあったらいいな」と思えば、「あるんじゃないか、探してみよう」とネットで探し、見つけたり、なかったら、簡単なものを作って使いまわすことがあります。

このように「たられば」という言葉は一般的にはネガティブな印象が強いですが、「逃げたくなる」心理の浮上を利用して、多くの人がそう感じていることを理解し、ソリューションとしてサービスを提供したり、のきっかけになるということで言えば、ポジティブな言葉になると思うのです。

しかし、絶対に混ぜてはいけないものがあります。

 

■混ぜてはいけないもの。それは・・・ 

それは、・・・「他責」です。

 

「他の人が、やってくれたらな(やってくれないからできない)」という発想は超危険です。
この両者を混ぜた瞬間に、自分の目の前の仕事のコントロール権を失うのです。これがアウトプットとして出だすと、一気にソリューションを出せない人に早変わり。

 

たまに、この頻度が多い人がいませんか。コントロール権を早々に手放す人。私は独立したから、それに、良く気付くようになりました。
なぜ気づくようになったかというと、一人で事業を進めると、何も誰にも頼めないのです。そうすると、その自分から出ようとしていたこの負のアウトプットの頻度がよくわかるのです。
そして、客観的に、「あぁ、今までこんなに人を頼ってきたんだな」、と思います。

 

みなさんも、今まで、たまに不思議になることがあったのではないかと思います。「この人、もっと仕事できると思ったのにな、昔はもっとできたのにな、なぜだろう」という具合に。


事実、その人はある特定の分野ではこのストッパーはかからない(かからなかった)ことがあるようですが、その分野外になると途端にそのストッパーが出没するのです。


そして、この出没率は私の経験上、年齢と残念ながら相関してしまうようです。これは人間心理上、仕方がないことだと思います。本当に優秀な方ですら、そういう側面が出ることを思い出したからです。

なぜでしょうか。私は次のように考えました。

人間は、多くの経験や実績を積むと、確率論で多くの物事を対応できるようになります。その結果、確率の逆転現象が起きると、「異常」が発生したと捉えるのです。

だから、「何が異常なんだろう」と。この段階ですでに危険です。なぜなら、前提に「自分は間違っていないのに」思考が入りだすからです。
そして、見つかるのは、人による介在です。自然摂理は敵にできないし、前提と考えるよう訓練されるから当然ですね。

なので、疑わなくていいでしょう。この思考は普通なことなんです。だから、認識して対処すればいいと思うのです。

 

■どうやって対処する?
私が行き着いた答えのひとつは、成果を出すために、必要なものはすべてあるか、簡単に手に入る、と思うようにするということでした。
「こういう人がいたらな」→「探して見つからない」→「では、いると考えよう。どうやったら発揮してくれるだろう」という具合に。

「ない」と思って探し続けていても何もアウトプットされません。サラリーマンなら、良い材料になることが多いと思います。「じゃあ、しょうがないよね」という賛成多数で、無事、逃げられてしまいます。そして逃げている感覚からも逃げられます。w


特にあなたが実績をもっている、実力がある、能力が高いと認められている人ならなおさらです。

でも、本当の成果って、そういうことなんでしょうか?無かったからできませんでした、ではなく、無いなりのアウトプットを出すことでしょう。アウトプットゼロなら、売上ゼロ、給料ゼロ。それが本来の仕組みではないかと。

 

「ない」なら作ればいいし、同じものは作れなくても「代替品」を探せばいいのです。
そして、この決断のスピード(探したり求めるのをやめてアクションに切り替えるスピード)をあげていくことが結果、アウトプット量を多くしますし、同種の仕事を繰り返す度にその完成度は高くなります。
この考え方って、考えはしたものの、今から思うと、あまりサラリーマン時代は意識が至っていなかったなぁ、と。

 

■少し脱線して
ちなみに、世の中の「流行り思考」ってこの仕組みに似た悪いレールに乗っていることが多いと感じることがあります。

最近で言えば、「人工知能」。私も興味のある分野ですが。
すごく具体的に見つめている人も中にはいますが、多くの人が、まるで「ドラえもん」のように語ります。アクションに紐づかない「人工知能」を追う意味ないんじゃ?と思ってしまうこともあります。

過去にもこれが起きたので、人工知能はブームと言われてしまったのでしょう。
今回もこの乗り方を見ると、そうなってしまいそうな気がしなくもないですね。

これって、結局、「人工知能だったら」という「たられば」思考から、「Watsonがこういうのをやってくれたら」となり、その期待が行き着かないことがわかってしまうと、離れていくのでしょう。大きな問題は、アクションをしていないことです。「人工知能が出てきたら、こんな仕事なくなってしまうから」「人工知能に任せればいいから、やらなくていいよ」という。


もちろん、カスタマー側(サービスを受ける側)の思考はこういうものなんだと思います。だから、世の中にプロフェッショナルなサービスが求められ、消費が生まれる。

ただ、プロフェッショナルとして提供する側が、そういう思考で諦めるのはいかがなものかと。統計学がわからなければ勉強するか、数学を使ってなんとかするか、数学でなくても算数でなんとかしようとする、それができなければ自分なりのやり方で、目の前の問題に対処する、べきという。

 

と、思いっきり脱線しましたので、話を戻しましょう

 

■意識するようになって気づいた、「実は本当にあるし、自然と見つかる」ということ

そして、それぐらい考えていると、会う人会う人が、そういうものを持ってきてくれるような錯覚(なのか真実なのか)に出会いました。
シンクロニシティという神秘的な言葉で片づけることもできるのですし、そういう部分も少し信じていますが。(好きなので)

ただ、これをもう少し論理的に解くとすると、オークション的なものなのかな、と思っています。つまり、「最初から1万円以内でよいスーツを買いたい」とすると、「見つかりませんでした」という結果になります。
しかし、良いスーツを安い順に買う、と決断を変えると、12,500円のスーツが見つかります。妥協の産物といえばそれまででしょうが、その思考をすることで、本来すべきアクションに力を注げ、その時は、12500円で買うことを決めて、次に靴を探していた時に、たまたま、9980円のスーツを見つけることがあるのです。

これがある程度事実だとして、概念としては簡単ですが、仕事でこれをやれる人が意外にも少ないのです。どこかで、人のせいにして諦めたくなるようです。その方が圧倒的に楽なので。「スーツが見つからなかったので、会社に行きません。」みたいな。この例はさすがに通らないですけどね。w

 

■独立すると、とてもよい修行ができた


私も過去には気づかずにそういうことをしてしまっていたのかもしれません。
しかし、今は、すべてが自分に返ってきます。やらなければ、何も生まれないので。諦めるのも自由だし、小さなアウトプットを出すのも自由です。自由って本当に怖い。w

 

でも、これって、本当にいい修行だなぁ、と思うのです。
だから、これまで独立されていた人たちの仕事の執着心があんなにも高かったんだと、なんか妙に納得しました。

自分自身もこれが体に刷り込まれるように、今できるだけ多くの経験をして、デトックスをしたいと思います。

1人起業って楽しくて、怖い。だからやってよかった。(起業3か月の所感)

一人起業をはじめて、昨日で丁度3か月が経ちました。

考えてみると、これまで社会人も学生時代も含めて、何かの組織に属していました。あまり意識していなかったですが。

 

それが、当たり前ですが、一人で起業するということで、いろんな大きなギャップを感じてきました。

 

・たとえば、当然、どんな不安も相談できない(グチすら言えない)
・たとえば、当然、喜びを共感する人はいない(外の人に話すようなことでないささいなこととか)
・たとえば、当然、迷惑をかける人、かけられる人もいない
・たとえば、当然、客観的な意見は聞けない

・たとえば、当然、リードも自分、ボトルネックも自分というペースメーカー不在状況

 

当たり前のことですが、本当に一人って大変だな~、というのが本音です。今なら属すことができる組織という存在のありがたさが、痛いほど良くわかります。
でも、その合間に、その状況を俯瞰できた時、何とも言えない楽しさ、を感じるのです。こんな環境、組織に属していたら味わえない、そういうことを経験させてもらっているのは事実だと思うのです。


たとえば、何か小さな仕事が進捗がしただけでも、本当に嬉しいです。これはサラリーマン時代の何倍もうれしい、かな。大きな進捗がまだなので、それは楽しみなところですが。

 

色々経験してみて言えることは、自分自身、この経験をすべき人間だったんだなと思っています。
サラリーマン時代、色々一人で仕事をしてきたつもりになっていたり、仲間のありがたさを、これまではあまり考えられない人間だったのかな、と今になって思います。
なので、しばらくは、この一人の環境が辛いと思ううちは、続けた方がいいかな、と。

この感覚を一生忘れないくらい、今のうちに経験をしておきたい、という感じでしょうか。

 

その中で、自分の中の壊せるアイデンティティは、できるだけ今年壊してしまいたい。こんな環境変化、これからもそうそうあるわけじゃないと思いますし。

 

それができれば、組織に属しているより成長できたなって言えると思うし、なんだかんだ仕事もうまくできるんじゃないかと信じています。

 

この日常の恐怖を通して、一人起業を人に勧めますかと言われれば、以下の人には勧めたい気がします。
・成長が鈍化してきたと感じて、それが何よりも嫌と思う人
・とにかく成長するために自分を追い込みたい人
・精神力を鍛えたい人

自由に生きたい、楽したい人は、組織に属する方が、5-10倍くらい楽な気がしますね。
つまり、5-10倍以上は成長しないと、元が取れないということですかね。

 

そして、起業半年前の自分に勧めるか。
A)強く勧めます。

 

数年後の自分に、もう一度同じことを聞いてみようと思っています。書いてみて、改めてわかったことは、なんだかんだ楽しんでるんだな、という感じですね。(書くタイミングによるんでしょうが)

 

今の私にとって理想の生き方は、
 今を「楽しい」といえ、
 未来を「不安あるけど、基本明るい」といえ、
 過去は「すごく大変だった」と言えている
そんな生き方です。それが一番成長できる感覚だと思うので。

 

今は以前よりは少なくともそれに近い状況だと思うので、二度来るかは分からないこの状況を、できるだけ楽しんでみようと思う今日この頃です。

何かを"習得"するということ

何かを習得しようとする時、いつも感じることがあります。
プログラミング言語でも、英語でも、仕事でもそうですが、以下を感じます。

・わからない時は絶望的な気持ちにすらなる
・後で考えるとすごく簡単に思える
・乗り越えた時に、達成感を感じる
・関連本が昔はさっぱり分からなかったはずなのに、すごいわかりやすい本に思える(不思議になって、表紙を何度も見返したりしますよね。違う本なんじゃないかと)

 

何かを習得するというのは、本当に大変だと、改めて感じます。

自分の無能さ、無力さ、無知識さをじっくり知り向き合い、さらけ出す作業に等しいからでしょう。

 

なぜ、こんなに大変なのかを考えてみました。

たぶん、以下のようなことから出てきているのではないでしょうか。

①「見る」「知る」と「理解する」「反復して覚える」と「応用する」の間にはそれぞれ溝がある(習得のキャズム、みたいに言っておきましょう)
②いつも、今の自分ならと奢って、端折れるところを端折ってしまうこと(で、そこが大事だったりする)
③最も最短の選択肢は、最も時間がかかるように見えること

つまり、すべて身から出たサビ。具体的には以下のような感じでしょう。

 目の前に会得したいことがあるとします。
 例えば、スノーボードを始めてやるとします。
 スキーの経験がある方なら、他の人が滑るのを"見て"、簡単そうと思うのではないでしょうか?
 うまい人に少しコツを聞けばできそうじゃないかと。ちょっとコツを聞きに行って"知る"のです。
 
 基本練習なんて端折っていいでしょう、と思い込みます。("理解"、"反復して覚える"をスキップ)
 そして、いきなりコースで滑ろう("応用"しよう)とすると、思ったより難しい。
 
 まぁ、何回か滑っていればできるんじゃないかと、”応用”を繰り返す。
 何回やっても難しい。だんだん向いてないんじゃないかと思い出す。
 あぁ、私はスキーでいいやと諦めて終了。

 

ここで、地道に基本から始めていれば、この人はもう滑れていたかもしれません。

 

そうなんです、何の達人だろうが、経験があろうが、得意だろうが、新しいことをやるときは、すべてのプロセスを赤ちゃんのように愚直にやりましょう。
たくさん失敗しましょう。失敗自体を楽しみましょう。

それが、結局最も近道なのです。残念ながら、映画にあるような頭にインストールしたら、その場でなんでもできるようんある世界はないんです。


でも、その近道を通ってると、ある時みんな諦めている現状に出くわし、なぜか愚直な自分が先頭集団にいるような感覚にすらなることもあるでしょう。そして、それだけ大変だからこそ今までやってきたことに愛着と誇りが持てるようになるのです。
なんか、そんな感じがしました。願望も込めて。

 

あ、これは我々凡人の場合の話です。天才の方々は気になさらないでください。

私は、凡人のひとりとして今日も愚直に頑張ろうと思います!

「迷ったら、苦しい方を選ぶ」という、とても楽な選択基準

私は、確か書籍から影響を受けたのですが、「迷ったら、苦しい方を選ぶ」ということをいつも意識するようにしています。

この方法に出会ったときは、まさに目から鱗でした。「こんな楽な方法があったのか」、と。

 

私は、何事においても自分が決定者になる場合、「決断のスピード×質×量」がアウトプットになると考えています。
と言うのは簡単ですが、現実は簡単ではありません。決断する情報が揃う前に判断しなければ、スピードが悪化しますし、早く判断すると質が悪化します。ですので、いつも、判断に迷って遅れてしまったり、早めに判断し過ぎた感があったりしました。

例えば、大学を選ぶ時、就職をする時など、私の中では、感覚を重視して早すぎる決断をしていた気がします。これらの決断を一切後悔していませんが、他の考え方もあったかな、と思ったりはします。

そこで、「迷ったら、苦しい方を選ぶ」という考え方が活躍します。
例えば、大学Aと大学Bで迷ったときに、一方は「楽しそうだけどスキルは身につかない」、もう一方は「スキルはバッチリ身につく、けど勉強が大変そう」というのがあったとします。
以前の私なら、それぞれの要素を点数化して、数字で比較していたような気がします。結果として答えが同じになるかもしれませんが、数値化といっても簡単ではありません。すべての要素を列挙して、何段階に分けるか、それぞれ重みづけして標準化する必要はないのか、など。そして、91点と89点で評価した時の煮え切らなさ。重みづけを間違えていたら、すぐに逆転してしまうという恐怖ですね。

ただ、「迷ったら、苦しい方を選ぶ」というフレームワークは素晴らしく効率的です。
まず、自分に質問します。「どっちの方が大変、または苦しいと思うか?」、以上。
先の例で行くと、大学Bで決定。

なぜでしょうか。
私は、人間の心理メカニズムだと考えています。人間は追い込まれれば追い込まれるほど頑張ります。多くのスポーツプレイヤーがビッグマウスであることも、自分を追い込むという意味では似ているのかもしれません。私自身をコントロールする手段として、この追い込みをよく使います。
そして、大変とか苦しいというものは大抵、なんとかなります。そして、なんとかした後には、その局面を乗り切る力を手にできます。

だから、苦しい方を選ぶのです。「迷っているくらいだったら、苦しい方にいっとけ」という表現の方が近いかもしれませんね。

もちろん、自分を制する力がとても強い方には、意味のないフレームワークかもしれませんが、私は偉大だと思う経営者の方は、会社の決定ですら、こういう基準でやっておられるのではないかと思うことがよくあります。

私もそういう決断ができる会社づくりと、そのために必要な自己成長を続けていきたいと思っています。

頑張ったことに「見返り」を求めてよいのでしょうか?

さて、今日は「頑張った見返り」というテーマについて書いてみようと思います。

 

確か、半年前ほどだったか「頑張ったことに見返りを求めるのがおかしい」という発言をとある有名人の方がされていて、一部では称賛されていたようですね。私は、半分共感し、半分違和感を感じました。

 

今回、社長をはじめてみて、しかも従業員なしの1人の会社の社長なので、がんばりなんて見てもらえる人はいません。誰も評価してくれません。でも、それでも頑張ったことに見返りを求めています。ただし、私は、見返りが返ってこないと思わないで済むように、以下のように考えています。(いや、正しくは言い聞かせてます。w)

 

・がんばったら、「がんばったと人に言われること」を見返りと思わないようにする。
・なぜなら、その構図は、①がんばる=>②うちいくつかが形になる=>③うちいくつかが目標にプラスに貢献する=>④うちいくつかが人に知られる=>⑤うちいくつかが人に褒めようと思わせる=>⑥うちいくつか人が褒めてくれる、みたいな感じでしょう。

・こんな先のことをを見返りと考えたら、当然返ってこないと思いませんか。

よって、こう思うことにしました。

「求める見返りは、がんばったら、がんばったという事実が残ること、以上。」

 

そして、それぞれのつながりの確率がなんとなく計算できるようになったら、あといくつ頑張れば、いくつが形になりそうだな、と見える。

「頑張ったのに」と言えるのは、それぞれの中間確率が外れ値を出した時。つまり、信頼度95%ならば、そんなことが起こるのは5%くらい(のはず)。

 

と考えると、一人でも気兼ねなく頑張れる気がしてます。本当に単純な人間です。笑

タイトルで期待させたものを裏切るような言葉で締めますが、

「どんな見返りを考えても考えなくても、その人が結果頑張れる気持ちになれたらOK。特に決まりはなし、以上」

 

以上。