12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

「楽しむために走るか、楽しみながら走るか」

”楽しむために走るか、楽しみながら走るか”

 

これは、自分が考えた言葉ではない。
映画「カーズ」を子供と一緒に見ていた時に、出てきたフレーズだ。

 

すごく端折ると、昔は地形に沿ってグネグネに作られていた道路が、今は地形を切り裂き、真ん中に高速道路が通されている。昔は楽しみながら走っていたのに、今は、楽しむために走ることになった、というシーンで出てくるフレーズだ。

 

<仕事に当てはめてみた>

仕事をしている人たちの中に、このフレーズを照らし当てた時、どうなるだろうか。
「楽しむ」ことは、どうも悪とされていないだろうか?「必死で汗を書き、辛い思いを耐え抜いたものが、仕事でいう努力である」という風に思われてしまっていないだろうか。

 

このフレーズを聞いた瞬間、このようなことを考えた。


そして、何かすごくスッキリした結論に至った。

「そう、そうだ。だから独立してやっているんだ」、と。

 

<憧れていたのは、「楽しむために走れること」>

楽しむために走ることができる人はスゴイと思う。

自分は、そんなことはできないのだと思う。続かないからだ。

一方で、この「楽しむために走ること」に憧れていた。「血のにじむような努力」とかそういうことをできる人を心から尊敬し、憧れていた。そして、少しずつ近づいているんだとどこか誤解していたように思う。

 

しかし、今から考えると自分はそんな人間ではなかった。どんな状況であれ、どんな背景があれ、目の前のことを楽しむようにしてごまかしつつ近づいてきたのだった。

 

例えば、受験勉強。
勉強をする理由なんて、学生時代にあまり考えなかったと思う。それがいいことかどうか抜きにして。やるもんだと素直に思っていた。あまり、大学に入って、いい会社に入ってというような、ハングリーさもなかったと思う。

 

勉強の1つ1つを取ると、正直楽しくないことも多い。「楽しむために走る」なら、ここは我慢して、とりあえず、受験に合格した時のことだけを考えて自分にムチを打つんだろう。


自分は、どうやって楽しむかを考えた。「今日、何ページ進められるか」のゲームにしたり、友達とクイズを出し合うこと、テストの点数をあげることによって評価を得るという楽しみに。すごい工夫をしたわけでもないし、誰でもやっていることかもしれない。でも、やる気が抜ける時はどうしてもあった。自分という人間は、放っておくとどこかで力を抜くということがわかって、とても欠点に感じ、なんとかしようという思いは持っていたと思う。

 

仕事でも同じだ。自分は、ノルマを与えられて泥臭くやり続けて、嫌な方法をとってでもやり通すということは、正直できない人間かもしれない。
幸い、そういうのとは無縁な会社・環境で仕事をさせてもらえた。でも、仕事はあるがまま楽しいものというのは多くない。

 

だから、何かみんなと同じ仕事をする時、いかに自分なりの方法を考え出してやるかを考えた。そのために、本をたくさん読むことが楽しく、新しいだろうやり方を思いついた時は、楽しかった。

 

こうやって、結局、「楽しむために走れる」人間に憧れ、嫉妬しながら、「楽しみながら走ってきた」のだと考えた。

 

<独立した理由>

独立した時に、正直いろんな困難に直面する。
「なぜそんな苦労してまでそんなことしてるんですか?」と言われることも少なくない。これまでやってきた仕事で、今から何度振り返ってもやりたくない仕事なんて一つも思い出せない、多くの仕事が楽しかった。これだけは、自分は本当に恵まれていたと思うし、唯一自慢できることかもしれない。

それなのになぜ、独立だったのか。

 

今まで、何気なく、「いや、やりたかったことなんで」と答えていたが、どこか説得力に欠けているな、とは思っていた。。多分、聞いた人はどこかで納得しながら、「変わった人なんだな」と思っていたことだろう。正直な話、自分自身も納得させる言語化ができていなかったのだ。だから、自問自答したことがある。企業内にいて大きな仕事をすることと比較して意義を考えて悩んだこともある。

 

でも、一方で「仕事は辛いけど、帰宅後や週末は趣味に没頭しているので、まぁ楽しいですよ」ということの真意は正直全然理解できなかった。「一番長い時間をかけている仕事を楽しめばいいのでは?」と思っていた。時には、偉そうに言ってしまったこともあるかもしれない。

今となっては、人それぞれでいいことだと思っているし、たまたま自分が仕事に恵まれていたことを盾にしているだけかもしれないし、むしろそういうことができる人はスゴイと思うに至った。

 

しかし、当時は、その違いを明確に言えなかった。

 

そこで出会ったフレーズが冒頭の

「楽しむために走るのではなく、楽しみながら走る」、だった。


そう、それだ、と思った。

 

<「"本気で"楽しむため」だった>

自分が設定した目標が高い場合、困難も降りかかるし、バカにもされるかもしれない。
結果的には、目標到達まで時間がかかるかもしれない。

でも、なんでその道を選ぶのか。それは、「楽しい」からだ。でも、ただ楽しいだけではない

 

スタートアップの世界は、ヒントはたくさん善意で教えてくれる人はいるが、誰も答えは教えてくれない世界だ。何が正しいかの方法論がない世界だ。答えだと言い切る人もいて説得力もあるが、自分はその人ではないし、やっている事業も全く違う。だから、全てはヒントでしかないのだ。

 

それは、次のカーブを外から回るか、内から回るかの選択が、命取りになるかもしれない恐怖もありつつが、その選択と意思決定をするハンドルを確実に自分が握っている、そういうことなのだ。

 

もちろん、企業内でも楽しい仕事はたくさんある。しかし、命取りになったり怪我をするリスクは実は会社がとってくれていた。
これは大変ありがたいことだが、本当に本気になれなかったのではないか、と思う。

 

すぐ近くに身が震えるような恐怖があることが、自分の感覚を研ぎ澄ませ、ようやく"本気"を引き出してくれる。


本気で楽しむというのは、そういうことではないかと思い込んでしまったのだ。これは今でもこれを否定する思いが芽生えたことは一度たりともない。

 

自分にとって、「本気で楽しむ」というのは、

 

テレビゲームでレースをするのではなく、実際にレースをすることであり、
机上の理論で人へアドバイスするのではなく、自分自身が実践でやることであり、
安全な立場から人のやり方にアレコレを言うのではなく、自分でやることである。

 

そういう風に思った。

「本気で楽しむことを知らずに、人生を終わりたくない」と思ったことが、独立の理由だ。

 

<企業内で恐怖を感じて仕事ができる人はほんの一握りの超優秀な人だけ>

もちろん、企業内でそういうことをやっている人がいないわけではない。でも、それは超優秀な人の話だ。凡人には、そんな環境を与えさせないのが企業という組織体の鉄則だ。当たり前だ。企業も命をおいそれと1社員に委ねるようなことはしない。

 

結局、偉そうに言っているが、ただ自分はそういう場をただ勝ち得ることができなかっただけなのかもしれない。

しかし、そのおかげで独立が最善の選択肢であり続けることができたのだ。


正直、今も1割の想定していた困難と9割の想定していなかった困難との間で、何度も頭をハンマーで殴られたかのような感覚や、描いた青写真を一瞬でぐちゃぐちゃにされるような感覚に味わうこともある。大抵、そこから這い上がることを決めるとより良いものが出来上がることが多いことは、ようやくわかってきた。

 

まだまだ、心は折れるつもりはないが、折れてもおかしくないことは容易に想像できる。折れたという経験を持つ人がいたら、そこまでやりきったことを素直に尊敬できるくらい、今ではこれを身近なことと考えるようになった。

これは、ただカーブを曲がりきれずコースアウトすることに過ぎないからだ。そして、そのハンドルを握っていた人に、誰もとやかくいうことはできない。

 

だからこそ曲がれた時の達成感は、言葉に表せられない。いや、当然曲がれるでしょうというようなゆるいカーブですら、本当に嬉しい。今は、カーブを回れるアイデアが出た時ですら、飛び上がるほど嬉しいし、考えるのが楽しい。

 

そういうことだ。
「本気で楽しみながら走ること」、これが自分にとっての独立だった。

 

さて、これで少しは納得感を得ることはできるだろうか。

「懐中電灯1%の法則」で、未知の問題を解く。

[「未知の問題」へ対応できるか]

すぐに「やってみない」人に「未知の問題」は絶対に解けない。

 

「未知の問題」とは、これまでの方法では判断できない事案や、何が問題かもわかっていないケースへの対応や、自分には解決できるのかわからないような問題のことだ。

 

ビジネスマンは大抵忙しい。だから、合間に自分のタスクをこなすことになる。そうすると、まとまった時間がなければやれないような仕事は後回しになる。「未知の問題」は後回しの典型的な対象だ。

 

[ 経営者は「未知の問題」から逃げることは許されない ]

経営者や事業のリーダーでない場合、周りの評価を得るためには、これらは極論、無視しても構わないことが多い。小さくできることをこなしていれば、十分に評価は得られてしまうからだ。もちろん、ポジティブに期待を裏切ることもないが。

 

しかし、実はそれは成長の道を少しずつ閉ざしていることなのだ。忙しくしていることで満足感を得ていると、将来のある時、空虚感に襲われることになるだろう。でも立場によってはそれだけで済むと言っても良い。


経営者やその事業のリーダーがこうなった場合、その会社や事業は「市場の成長」と「これまでの頑張り」の慣性に委ねることになる。競合の経営者や事業のリーダーがこれを打ち破れてしまった場合、「試合終了」となることさえ覚悟しなければならない。

 

このような立場の人は、ない時間の中でも「未知の問題」をきちんと判断して対処していくことが絶対不可欠なのだ。それができないなら、早くその立場から身を引くべきだ。

 

[「先天的能力の不足」に言い訳を委ねるな ]

なぜ、人は「未知の問題」をすぐにやってみようとしないのだろうか?

 

その答えは「恐怖」だと思う。
「未知の問題」への対処は、真っ暗闇で目の前にある異物へ対処するようなものだ。
ただ、大小あれど、実は人間は誰しもこの暗闇を少しだけ照らす懐中電灯を懐に持っている。でも不思議なことに多くの人がこれを使わない。

 

なぜか。

それは、真っ暗闇を照らしてみる行動は実はとても恐怖に満ちているからだ。
「もし、みたくもないものだったら」
「もし、手に負えない存在であったら」


そんな恐怖が、多くの人に懐中電灯を使わせないのだ。
そして答える、「検討します。」と。多くの場合、(結果的には)する気もないのに。

こうして、その問題は、暗い倉庫の奥にしまわれ、そのまま二度と出てこないことも普通だ。

 

上述の通り、「未知の問題」を後回しにしない力を「恐怖」への対応だと言った。

つまり、先天的能力(生まれ持った知能やスキルなど)ではないと言い切れると考えている。意思を中心とする後天的能力だ。

「いや、自分にはそういう力や経験がないので・・・。」という言い訳は「やる気がありませんでした。やるべきだと思えませんでした。」に等しいと思うべきだ。だったら、最初から潔く後者を言えば良い。

 

[ 恐怖を感じる「未知の問題」の出現は絶大なチャンス ]

もし、目の前の物体に恐怖を感じるなら、なおのこと、はっきり照らして確認をするべきだ。しかもできるだけ早く。

なぜなら、そんなチャンスなことはないからだ。

そんなに経験をしてきた、真剣に向き合ってきた自分ですら感じる恐怖だからだ。

 

競合が同じ恐怖を感じないはずがない。その中で何%の人がこれを後回しにしてくれるだろう。つまり、それを乗り越えればライバルがまた少し減るのだ。

 

[ 対処方法「懐中電灯1%の法則」 ] 

最初に問題に懐中電灯の光を当てると、想像通りの恐怖が待っている。

「あ〜、やっぱりきたか、今度こそ本当に大丈夫かな」。いつもそう思ってしまう。

 

しかし、そこで目をそらしてはいけない。実は多くの場合、その対象とその周囲を順々に照らしていくと、実はそれが未知のものだけではないことがわかる。

(ここだけすごく実務的な話を書くと、このようなケースは目の前で起きていることをテキストエディタを開いて、ひたすら文章におこすようにしている。頭の中で考えてばかりいると自分の中の恐怖感が、問題を実際よりも大きくしようとしているので、文章化することでそれが明らかになり除外できるからだ。私の中で、懐中電灯はテキストエディタだ。)


そして、実に多くのケースで、数分〜数十分で最初の大きな問題(正確には大きいと思っていた問題)の解決の糸口が見える。

今の感覚では、この閾値は作業全体にかかるだろう時間の1~2%くらいの時間だ。この感覚値は実際の作業をベースに擬似体験をしておくべきだ。300分(5時間)ほどかかると思っていた作業が最初の5分ほどで解決の糸口が見つかることが実に多いのだ。

もちろん、毎回そういうわけにもいかない。うまく解決策が見出せないこともある。敗北感も十分に味わうが、これは「失敗」と言って良い。

私自身は10~30%ぐらいで解決できない場合、負けを認めて逃げる。その問題のうち、多くの場合、人を頼ることで解決する。自分でやってみてできなかったので、すんなり人を頼れるのだ。相談しようとしたタイミング、または直後で糸口が見つかることも少なくない。メールで相談しようとして、送信ボタンを押す直前で気づくことも何度もある。

 

逆に、最初の1%の労力を惜しんで、または逃げて、この問題を心の奥の倉庫に一度しまってしまうと、再度引っ張り出してくるには時間も、恐怖も、疲れも労力も増加する。一度しまってしまったこと自体がさらに恐怖感をうむ。同様のケースはスルーして倉庫に山積みされる。

こうして対処できなかったことは「失敗」ですらない。ただの「逃避」だ。敗北感をまともに味わうことはないかもしれないので、その方が楽だと誤って思ってしまうなら、以下の言葉を復唱すると良い。

 

「失敗は成功の元であるが、逃避は成功にとっての毒である」

 

小さな違いに思いがちだが、とても大きな違いなのだ。


たった1%。それだけいいから真剣に考えよう。
解決できず絶望する恐怖に少しだけ向き合おう。他のこなせてしまう「既知の問題」タスクの達成感ばかりを味わいたくなる気持ちを少し抑えて。

それが「やってみる」ということだ。
これができない人に、その問題は絶対解けない。

 

そして、やってみると実に簡単なことがある。

そんな時は「何を悩んでいたんだ、バカだな」と数分前の自分に圧倒的勝利感を味わうことすらある。(と同時に恥ずかしさと自己嫌悪感も感じるが。)

 

この重要性を忘れないために、これを「懐中電灯1%の(問題解決の)法則」と呼ぶことにしておこう。

「悔しさ」、なければ作れ。以上。

悔しさを忘れた時に成長は止まる。

 

と、私は思う。

 

正直、悔しいことを見返してスカッとしたい、と思っていることは否定しない。

 

でも、スカッとする以上に、よく考えると悔しさがなくなることはとても怖いのではないか、と思った。こんな感覚は異常なのだろうか。

 

ある本では、深層心理でお金持ちになることを多くの人が怖がっていて、結局その通りになっている。というようなことが書かれていた。自分は、なぜか妙に納得した。

 

悔しさがあるから、楽しい。

楽しさがあるから、悔しい。

 

このバランスを失うことはとても怖い。楽しくなくなることももちろん怖いが、同様に悔しくなくなることも怖い。知りうる限りの理論上、循環しなくなるからだ。

 

自分が臆病者なのか。それは全く否定できない。

例えば、死に直面した戦いにいく士と同じ覚悟を仕切れない時点で、少なくとも誰かよりは臆病者であることは間違いない事実だ。

 

でも、この怖さを乗り越えることが成長することなんだと思った。

だから、マズロー自己実現の上に自己超越を作ったのではないかと思う。5段階という綺麗な終止符に6段階目を作るというモチベーションは、相当ではないか、と。

 

この壁は恐ろしく高いと思うことがある。でも、だからこそ超えられない自分が悔しい。と考えた時に、あ、こうやって新しい悔しいは生まれるんだな、と。つまり、目標設定で、悔しさは生み出せる。

 

高い次元で戦っている人は、普通の人にはわからない、こんな戦いをしているのではないかと。ふと思った。なるほど、ビッグマウス、有言実行、といわれる人が尊敬されるわけだ。

 

これが真実かなんて確かめる気もないけど、真実ではないと疑う気も、ゼロだ。

 

悔しさがなければ本当の底力はでない。だから、怖いのだと思う。底力のない自分なんて、むしけら(虫に失礼だが)と変わらない。それを知っているから。

 

結論。

悔しさは、なければ作れ。少しあれば、叫びたくなるくらい考えて感じろ。

(本当に悔しいと思っている人はこれを否定できないのではないか。)

 

いや、作れないという人に。

何年もかけて、自分が成したことの小ささ、を考えろ。

何十年も生きてきたのにもかかわらず、人間としての器の小ささを考えろ。

自分が、悔しさを感じない人間だと大手を振って宣言できないことに悔しさを感じろ。

 

というぐらい、悔しさは大事だと思う。

 

今、何かが辛いと思っている人へ。辛いことがいつか悔しさに変わると思う。

それは、生きる糧になり、成長する起爆剤に間違いなく、なると。

それは、実は誰もが望んでも手に入れられない糧だ。

なぜなら、それは、あなたが生きてきた証明であり、逃げなかった証明であり、チャレンジした証明だからだ。

 

もちろん、悔しさに向き合える自分に、私はなりたい。向き合いすぎて開き直れる人間にもっとなりたい。

 

本当に悔しい時は、こんなことは言えないだろうから。

最も親しい人へすら、できるだけ言わないだろうから。

 

あぁ、何十日ぶりなのだろうか、ふと悔しさを忘れたのは。

いや「忘れたことに気づけたのは」というのが正しいだろう。

まぁ、明日の朝には夢が覚めるだろうけど。

 

数年以内に自分で望んだ悔しさに後悔しているだろう自分へ、ここに残しておこう、と。

独立することは、「お金の匂いが消える」こと!?

サラリーマンを辞め、独立すると「企業の看板を外す」という表現をすると思う。


この言葉は、仕事がしづらくなる、周りの人に認めてもらえない、信用されないというネガティブな意図で使われる。もちろん、いままで通りに行かないことは当然だ。


でも、他に違う言い方ができないだろうか。

きちんと残るものがあることを伝える別の言い方が、と思った。


そして考えたのが「お金の匂いが消える」だ。

サラリーマンで無くなると「お金の匂いが消える」。
だから、信用されないこともあるし、認めてもらえないことも多くなる。

そう言うと、気楽ではないだろうか。

だって、それは決して自分の色が消えることではないから。


むしろ、お金の匂いがなくなった分、自分の色が強くなる。重要になる

お金の匂いが完全に消え去っても、
信用してくれる人や認めてくれる人は、残るし、新たに現れる。

 

ある意味、重要なものを見つけるためのスクリーニングと考えてもいいかもしれない。人生をかけた人にしかできないスクリーニングだ。


自分自身からお金の匂いが消え、自分の色だけになった時に、本当にその色を信用し認めてくれる人が見つかる。

 

お金の匂いがあるうちは、これは実はわからない。
もちろん、お金の匂いを嗅いでる人も、そんな金欲ばかりで考えているとは全く思っていない。そういう人達はその人達なりの色を探している。さがしているそれが自分の色と一致するかしないかだけだ。

そして、その色が少し合わない時にお金の匂いで取り持たれていた、そう言うことなのだ。


自分も昔は、お金の匂いで人を「面白そうかどうか」を嗅ぎ分けてしまっていたこともあるように思う。確かにこの両者、面白い人とお金の匂いがすることは確率的には相関するので、誤っていないように思える。しかし、あくまで相関であり、お金の匂いがすれば、面白い人であるという十分条件ではないし、面白い人から必ずお金の匂いがするとも言い切れない。そんな関係だと思う。

 

こういうことが実感を持てるのも中々体験できない貴重な経験だ。


そして、自分の色だけでつながった、そのつながりは、本当に貴重だし、大事に考えたいし、そうなると思う。

やってることが大きいとか、小さいとか・・・

あなたが神様だとして、なんでもいろんな体験を人に与えられるとして、

「やってることが大きいとか、小さいとか」をどうでもいいと思うための期間が必要なんだという前提があった時、


そしてそれに気づいてない誰かがいた時、あなたなら、どういう体験をさせて理解させようとするでしょうか?

 

おそらく、その人が大きな落胆をしたりすること、
信じていたものを失うような感覚や、またはその事実を見せつけたり、
小さな感動を与えたりするのではないかと思います。。


できれば、やれることは大きい方がいいと思います。
いろんな人に影響を与えられるような、すごい大きなことをやった方がいいと。(正確には目指した方がいい、と。いきなり前提を覆すような話ですが。)

 

でも、大きなことをやる前に、絶対にショートカットしてはいけない問題が、その前にある、それは、「小さなことにどれだけこだわれるか」、だと思っています。

なぜなら、「大きなことをしたからすごい」というのは本人の自己満足だけでしかなくて、多くの人は「正しいことをした人をすごい」と思うのだと思うからです。

 

これ自体が正解とは言い切れません。しかし、もし、将来、そういうことに気づいたとしたら、過去の自分に上の通り、「やってることが大きいとか小さいとか」どうでもいいことをなんとか教えようとするのではないでしょうか。

だから、上でいった誰かとは、今の自分なのです。

 

大きい小さいではなく、正しいか正しくないか。
それの方がよっぽど重要で、そこを間違うと、大きいけど正しくないことをやるだけで、あとで後悔するだけだと思うのです。

ということに少しでも共感できれば、今の目の前の障害をもう一度考えてみてください。

 

「あぁ、なるほど、そういうことか」「だからか」ということが多いのではないでしょうか。

 

いま目の前のことに、正しく向き合い、正しく挫折し、正しく立ち直って、正しくこなしていくこと。
そして、周りの人がいう正しいではなく、自分が思う正しいであること。

 

しんどいし、大変だけど、これから逃げるようでは大きくて正しいことは一生できない、と思っています。

 

他責にしない方法は、フンをかけてきたハトに感謝する方法と同じだ

他責にする行為は、最も醜く愚かな知的行為であると思う。愚か、というのは、その瞬間に自分の成長にプラスにならないからだ。

そうわかっていても、突発的に起きた事象で知らず知らずそうしてしまっていることがある。後で後悔することもある。

 

それを解決する方法を発明してしまった。これはスゴイかもしれない。w

 

その方法とは、
「すべての事象を、"奇跡"というレンズを通してみる。」
というものだ。

ただ、これだけだ。

 

嫌な思いをした体験、例えば、ハトにフンをかけられたということがあったとしよう。
たいていの人は、「あぁ、最悪だ」「運が悪い」「なぜあそこに屋根を作っておかないのか」とイライラして流してしまうのではないだろうか。
ハトにフンをかけられたことを「被害」というレンズでみると、こうなる。


一方、ハトにフンをかけられたことを「奇跡」というレンズで見てみよう。

ハトにフンをかけられるのは人生で数回もないことだから、確率的には奇跡である。とまず奇跡を肯定する。この肯定は重要だ。

 

これを越えればあとは簡単。

「奇跡」というワードには不思議な力があるからだ。

 

なぜなら、そのレンズを通しただけでこう考えないだろうか。
「なぜ、その"奇跡"は起こったのだろう」、と。
「神様は自分に何を経験させたかったのか」、と。

そして、事象分析に入る。
「フンをかけたハトは悪意があったのだろうか?」

「あったとしても、もしかしたらその前に、人間にイタズラをされたとかがあるかもしれない。」そうだとしたら、かわいそうだ。

「いや、今回は、ハトの知能レベルを考えると悪意がない、と考えてみるのが妥当ではないか。」カラスなら悪意認定できそうだけども。

「なるほど、悪意がない行為で人を傷つけるということがあり、その痛みや辛さがどんなものか、これが、神様が自分に伝えたかったことではないか。」

「他の人も同じ経験をしたらこんな嫌な思いをするのかな」と考える。
人の気持ちになって考える、ということを実践できだす。いつもは忙しくてやれていないようなことかもしれない。

「自分自身も今回のハトのような行為をしていないだろうか、良かれと思って。しているとしたらどういうことだろうか」、と考える。

そして、そこでいろんな思い当たることを考え直すきっかけになる。その瞬間からそういうことに気をつけるようになる。

つまり、自分は少し成長できたことになる。しかも、なかなかできない被害者の痛みをリアルに感じながら、体験として心に刻むことができるのだ。

 

「被害」と捉えた人にはイライラしか残らない。場合によってはそのイライラに便乗して、他人を傷つけたりしているかもしれない。これが、"他責"という行為だ。

一方、「奇跡」と捉えると、もっと暖かい気持ちになる。ハトを恨むことはない。むしろ感謝すらできる。これが、「他責にしない」ということでもある。

 

どんな事象もと言ったが、意識するのはネガティブなものだけでいい。
「奇跡」と捉えることですべてが「他責にしなくなり」、自分にプラスになる。

 

独立し、人と人とのつながりの強さもモロさも、自分の無力さもとてもよく感じることができる。しかも、独立後の出会いは、すべてが本当に奇跡のようなものだ。自分が生きていくために残された方法は、成長する方法以外に道はない。だからこそ、今回のような思いに強く目が向けられる(=奇跡の体験)ようになったのだと考えている。

 

だから、他責にせず、常に成長するために、普段から意識して考えている方法だ。

あなたには「野望」がありますか?

(1) 期待してよい人とよくない人
フランスの作家ジードという方が「真実を探しているものを信じよ。真実を見つけたものは疑え」と言ったそうだ。非常に腑に落ちるフレーズだ。

 

これまで、色んな人と会ってきたし見てきた。いい意味でも悪い意味でも、期待を裏切られたこともある。

裏切られた多くのケースは、上のフレーズに集約されている気がする。「こんなの私にとっては簡単ですよ」という人のアウトプットは期待を裏切られることが多い。

もちろん、少し昔、その方が努力して作り上げた、築き上げた時ならそのアウトプットは良いものだったのかもしれない。しかし、時代は変わっている。そのアウトプットにはその人が、過去ではなく今、必死にならないとできない付加価値が加わらないと、色あせたものになる。

だから、「簡単ですよ」という人は、その領域ではあまり信じられない。なぜなら、その人は、自分の"できる"100点満点でものを語っているからだ。もちろん、期待せずに、アウトソースする場合にはこのような方々にお願いをすればいいケースもある。

 

一方、期待してよい人は、その課題を「面白いですね。」「やるならば、こういうことにチャレンジしたい」「なんとか頑張ればできると思います。」という。
こういう人は大体、自分を伸ばし、成長しようとしている人だ。このタイプの人は、自分の"やりたい"100点満点で語っている。期待を100%を超えて返すことをベースにしているのだ。

 

(2) 真実を探している人を見分ける方法
でも、真実を探している者と見つけた者ってどうやって見分けるのか。

自分なりの答えは、ストックではなくフローを見せてくれる人だ。
例えば、今まで何をやってきたか、どんな功績があるか(=ストック)を見せようとする人ではなく、今どういうことをやっており、何にチャレンジしているか(=フロー)を見せる人だ。
もっと端的に言うと、実績ではなく、行動だ。

 

実績はもちろん、行動ができることを証明する者の一つだ。しかし、その人が今から行動する保証は全くない。

「真実を見つけた」人は、マネージメントに立ってもいけない。その人の管理下に着く「真実を探している者」を腐らせるか、離脱させるだけだ。


こういう人は、この観点で話を聞いていると、言葉の端々でその兆候はキャッチできてしまう。

ただ、世の中の常識や多くの人、風潮は「真実を見つけた」人をもてはやす(ように見える)。それを見つけたこと自体はすごいことだが、その評価自体も現在ではなく、過去のものなのだ。

これからを作っていくことができるのは「真実を探し続けられる人」だ。
だから、その差に新卒も大企業出身のエリートも関係ない。

 

(3) 自分が「真実を探している者」でありつづける方法
人生の中で、いつでも真実をずっと探し続けるのは大変なことだと思う。時には見つけた感覚に浸りたくなる時もあるだろう。
しかし、その見つけた感覚で、承認欲求を満たしているとしたら、とても危険だ。

一度その甘い毒を飲んでしまうと、断ち切るには相当な覚悟と行動力がいる。どっぷり浸かってしまうと「すごかった人」ですら抜け出せなくなる。
これこそが、30~40代の成長の壁なのではないだろうか、と思う。

 

これを断ち切る方法が、一つある。

それは、いつでも、誰にでも話せる「野望」があるかどうか。野望とは辞書によると「身の程を超えた、大きな望み」だ。やったらできるだろうことではなく、一見できなさそうなことだ。別に大きくある必要はない。崇高で偉大である必要もない。

 

だから、時には嘲笑されたり、愛想笑いをされつつ無視されたり、あからさまな社交辞令で褒められることもある。多くの人に「やろうとしていること」ではなく、「できていないこと」を責められる。なので、そんな簡単なことではないかもしれない。


でも、その野望を言い続けられてさえいれば、少なくとも「真実を見つけた」側にはいかなくて済む。たまに、虚像の野望もあるが、その場合は行動が一切ないので、すぐにバレる。

 

さぁ、今のあなたには、野望がありますか?