12年のサラリーマン生活から飛び出した社長のブログ

株式会社エフォートサイエンスの社長、村上のブログです。本ブログは私的なものです。

仕事で焦らない準備をするための、魔法の言葉。

2018年になった。

この1年も悔いを残さないために、仕事の進め方を書いておこうと思う。

 

<焦った時には、もう遅い>

結果が出ないと焦る。

焦ると、アウトプットがチープになる。

そして、結果がさらに出ない。


これは、わかっていても抜けられない、"焦りのループ"だ。


意識が高い人ほど、焦る。
できるかできないかもしれないことに挑戦していて、結果が出ないかもしれないことを選ぶから。

 

そして、真面目な人ほど焦る。
人に迷惑をかけているとか、人に不満を感じさせてしまっているとか、考えてしまうから。


焦ることは、悪くない。

 

ただ、重要なのは、「焦った時にはもう遅い」ということだ。


もう、その時点で、
自分の準備が足りてなかった。
自分のスキルが足りてなかった。

 

ということだ。悔しいけど、諦めよう。

ただ、諦める、というのは、「もうどうでもいいや」となれということではない。
スイッチを変える必要がある、ということだ。

もう踏んでいるフルアクセルをさらに踏む方法以外での解決策を探し始めるスイッチだ。エンジンはそのまま動かすが、着地点を変えたり、人を頼ったり、違う行動を行うスイッチを入れる。

 

最終的に需要なのは、本当にフルアクセルで動かしていたかどうかが重要なのだ。
フルで動かしていたとしたら、結果が出なくても、結果を出す力は確実に上がっている。だから次に同じことができた時の結果を出せる確率は高くなる。

 

<焦ることを避ける方法>

そもそも焦らない方がいい。


そのために、焦ることを避ける良い方法がある。


それは、他の誰かよりも、「自分が最大のプレッシャー」になることだ。

 

例えば、他の誰かがいう期限よりも自分がかけるプレッシャーの方が高い状態を作る。そんなイメージだ。

 

でも誰かより大きいプレッシャーというのは曖昧で、想像で設定すると時に外すこともある。

 

 

それを簡単にチェックできる魔法の言葉がある。

 

それは、「日本一、世界一の」という枕詞だ。これをつければ、大抵、最大になる。

 

今の仕事を同じリソース(資金、リソース、時間、能力)で、日本一、世界一のゴールを決めてそれを自分のプレッシャーにすることだ。(もちろん、リソースとか能力はこちらの問題なので、前提として、それを理解してもらっている必要はあるが)

 

これができれば、人に焦らせられる前に、自分が焦らせていることになる。そして自分が焦らせている状況を、人は焦るとは捉えないようだ。

 

「高い目標を掲げている。」という。つまりポジティブに捉えられるのだ。

そして、結果が出なくても、多くの場合、他者の合格ラインに届いていることは多いし、それでも届いていなくても、それこそ、次の同じ事象の結果創出力確率は必ず高くなる。

 

一方、こういう考え方をしていると、簡単な仕事を難しくしてしまうという副作用もある。なんでも世界一で考えてしまうから。

 

だから、自分が納得する結果なんて、ずーっと、出ないということも普通になってしまう。その覚悟は必要かもしれない。
常に「また、できなかったな」「能力不足だ」と思うことになるし、自分を「ホラ吹き」とすら思えてくる。

 

でも、それでいい。それぐらいでいれば、周りの人が慰めてくれるから、自分自身で慰める必要はなくなる。

 

できる能力がないのなら、目標を下げれば、と思う人もいるかもしれないが、どっちがいいかというと、できる方がいいに決まってる。

だから、目標を下げるのではなく、能力を上げることにフォーカスする。そのための最良の選択肢ということだ。能力を上げるには時間がかかる。当然、周りの人はそれを待ってはくれない。でも、いつか、その能力が追いつく日がくればいい。

 

本当の結果は最後にバンっと出ればいいのだから。
ゴッホみたいに死んだ後にバンっと結果が出ることもあるんだから。

 

本当に大事なのはその時にフルアクセルだったかどうかだ。それでしかない。

仕事を納めない。

年末らしいことを書いていないので、書いてみよう。

ふと、そう考えて、年末らしいワードとして、すぐに「仕事納め」が思い浮かんだ。
仕事納めという言葉を慣習的に使っている背景はよくわかるし、自分自身も使っていた。

 

しかし、今年はそれを使うことに違和感というか抵抗を感じた気がした。

 

なぜかな、と思い、まずは意味を調べてみた。
「仕事納め」という言葉の意味は、以下とのこと。

---
コトバンクより引用
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%95%E4%BA%8B%E7%B4%8D%E3%82%81-180531

仕事納めとは、年末にその年の全ての仕事、
業務を終える事を指して使われる言葉です。

会社員の場合は、会社で仕事納めの日付が
決まっていることがほとんどであり、仕事納めの
翌日から仕事始めの日を迎えるまでは年末年始休暇となる。
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なるほど、"翌日から"か。

つまり、12月31日に仕事を少しして、1月1日に仕事を少しすると、仕事を納めないことになる。

 

もちろん、12月31日に仕事をします、ということを言いたいわけではない。
実際、明日は新幹線で移動する予定なので仕事する時間はないかもしれないし、結果的に仕事をしないかもしれない。

 

でも、それって当日にならないとわからない、もっというとその日が終わるまで分からない。急にいいアイデアが湧いてくるかも知れない。そしたら、スケッチをとるだろうし、それは仕事だ。

 

つまり、違和感の正体は、

・事前に(もう今年仕事をしませんと)宣言できること
・日単位で考えられていること

だった。

 

もちろん、営業納めは実質的にある。オフィスに行かない日があるからだ。

 

でも、仕事納めは、決めてはいけない、と思った。
5分でも10分でも時間があれば、仕事のことを考えなければならないし、考えたいから。

 

ただ、こういうと煙たがられるだろう。

少し脱線して、なぜ煙たがられるかというと、社会通念上、仕事をすることを、ネガティブに捉えられる部分もあるからだと思う。なんか、いや自分を律して頑張り抜いてます、という真面目生徒的な印象を持たれがちな気がする。ただ、少なくとも自分の場合はそうではない。いや、「暇があったらゲームしてます」と同じニュアンスだ。

 

ちなみに、さらに脱線すると、仕事って本当にネガティブに捉えられているのか、気になったので、GoogleのAIを無駄遣いしてSentiment(感情)分析をしてみた。

 

▼文章とSentiment Score
*プラスがポジティブ(1.0が最大)、マイナスがネガティブ(-1.0が最大)

・仕事をする : 0.1
・子育てをする : 0.3
・麻雀をする : 0.2
・サッカーをする : 0.3

多少ポジティブに働いているものの、他のものと比べると、ポジティブじゃない。
さすが、Google、言語の微妙なニュアンスも学習できている。

(面白かったので載せてみた。)

 

話を戻して、、、

 

もちろん、こうあるべきだ論では全くない。オンオフを切り替えられる人はすごいし、そういう切り替えができない仕事もある。

 

自分自身が今は、少なくとも10分あったら、何かを考えられる可能性のある仕事をしているので、年末が終わる最後の10分までチャンスがあれば仕事をする。

そう考えているからの違和感だったらしい。年始も、朝一から仕事のことを考えたい。

 

結局、年末らしくないポストになった気がする。

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わざと、ギリギリを選ぶ。

ギリギリがいい。

 

リソースや時間やお金が潤沢にある方が良いと思いがちだが、ギリギリの方がいいこともある、いやむしろそうでなければならないケースもあると考えるようになった。


以前、資金調達をされた起業家の勉強会で、資金調達後が実はすごく危険という話を聞いて、モヤモヤしたものが確信に変わった気がする。

どんな仕事をしていた時も、忙しくない時や時間が欲しくない時はなくなる。

 

「もう少し時間が欲しい」
「もう少し人が欲しい」

 

そんな状況は、どんな時も訪れる。
しかし、これくらいの方が実は一番充実しているということだ。

実際に時間が1日25時間になっても、おそらくアウトプットはあまり変わらないと思う。人が少し増えても、もう少し人が欲しい状況は変わらない。

もちろん、楽をしたいという意図でなければ、時間やリソースは可能な限り増やせば良い。その上で新しいギリギリのラインを求めることができる。

 

潤沢にある状況を想像してみると、本当に怖い世界だ。
いくらでも使えるお金があって、いくらでも使えるリソースがあって、いくらでも使える時間がある、とする。

 

そんな時は、今みたいに、

「やりたいことを厳選して」、
「それを選んだからには魂を込めて」、
「できていないことを人から指摘されないように必死になって」、

そんなことが無縁になってしまうのではないか。

 

つまり、表面的な仕事が常になりやすくなる。「時間がある」と思った時の仕事の効率は明らかに悪いということは、誰しも体験済みのことかもしれない。

だから、ギリギリがいい、と思うようになった。


ただし、ギリギリは疲れる。というのはある。
常にプレッシャーに突き動かされる訳だから。

 

しかし、そのギリギリを自分が決断したと言える状況を作ると、つまり、ギリギリじゃない選択肢が常に横に用意してあって、それを選ばないという状況を続けると、そのプレッシャーはストレスにはならないと思っている。

だから、後に残らないし、追い詰められない。ただのプレッシャー(押してくれるもの)であり続ける。この境地が少し見えた気がする。

 

だから、わざとギリギリを選ぶ。

 

これが良い判断なのかもしれない。

ただ、これは資金やリソースをわざと増やさないという訳ではない。ここが難しい。生きている資金と生きているリソース、生きている時間だけを増やす、つまり、必要最低限を決めること。少なすぎると、"わざとギリギリを選んだ"ことにはならない。この加減が、難しいけど"戦略"そのものなのかなと思う。

 

ギリギリの状況を好むことができなくなったら、起業家や仕事人としては終わる時なのかもしれないとすら思う。
それは挑戦していないということかもしれないから。

 

ギリギリの時に生まれたものには、魂が宿る。

 

だから、疲れるけど、ギリギリがいい。

「楽しむために走るか、楽しみながら走るか」

”楽しむために走るか、楽しみながら走るか”

 

これは、自分が考えた言葉ではない。
映画「カーズ」を子供と一緒に見ていた時に、出てきたフレーズだ。

 

すごく端折ると、昔は地形に沿ってグネグネに作られていた道路が、今は地形を切り裂き、真ん中に高速道路が通されている。昔は楽しみながら走っていたのに、今は、楽しむために走ることになった、というシーンで出てくるフレーズだ。

 

<仕事に当てはめてみた>

仕事をしている人たちの中に、このフレーズを照らし当てた時、どうなるだろうか。
「楽しむ」ことは、どうも悪とされていないだろうか?「必死で汗を書き、辛い思いを耐え抜いたものが、仕事でいう努力である」という風に思われてしまっていないだろうか。

 

このフレーズを聞いた瞬間、このようなことを考えた。


そして、何かすごくスッキリした結論に至った。

「そう、そうだ。だから独立してやっているんだ」、と。

 

<憧れていたのは、「楽しむために走れること」>

楽しむために走ることができる人はスゴイと思う。

自分は、そんなことはできないのだと思う。続かないからだ。

一方で、この「楽しむために走ること」に憧れていた。「血のにじむような努力」とかそういうことをできる人を心から尊敬し、憧れていた。そして、少しずつ近づいているんだとどこか誤解していたように思う。

 

しかし、今から考えると自分はそんな人間ではなかった。どんな状況であれ、どんな背景があれ、目の前のことを楽しむようにしてごまかしつつ近づいてきたのだった。

 

例えば、受験勉強。
勉強をする理由なんて、学生時代にあまり考えなかったと思う。それがいいことかどうか抜きにして。やるもんだと素直に思っていた。あまり、大学に入って、いい会社に入ってというような、ハングリーさもなかったと思う。

 

勉強の1つ1つを取ると、正直楽しくないことも多い。「楽しむために走る」なら、ここは我慢して、とりあえず、受験に合格した時のことだけを考えて自分にムチを打つんだろう。


自分は、どうやって楽しむかを考えた。「今日、何ページ進められるか」のゲームにしたり、友達とクイズを出し合うこと、テストの点数をあげることによって評価を得るという楽しみに。すごい工夫をしたわけでもないし、誰でもやっていることかもしれない。でも、やる気が抜ける時はどうしてもあった。自分という人間は、放っておくとどこかで力を抜くということがわかって、とても欠点に感じ、なんとかしようという思いは持っていたと思う。

 

仕事でも同じだ。自分は、ノルマを与えられて泥臭くやり続けて、嫌な方法をとってでもやり通すということは、正直できない人間かもしれない。
幸い、そういうのとは無縁な会社・環境で仕事をさせてもらえた。でも、仕事はあるがまま楽しいものというのは多くない。

 

だから、何かみんなと同じ仕事をする時、いかに自分なりの方法を考え出してやるかを考えた。そのために、本をたくさん読むことが楽しく、新しいだろうやり方を思いついた時は、楽しかった。

 

こうやって、結局、「楽しむために走れる」人間に憧れ、嫉妬しながら、「楽しみながら走ってきた」のだと考えた。

 

<独立した理由>

独立した時に、正直いろんな困難に直面する。
「なぜそんな苦労してまでそんなことしてるんですか?」と言われることも少なくない。これまでやってきた仕事で、今から何度振り返ってもやりたくない仕事なんて一つも思い出せない、多くの仕事が楽しかった。これだけは、自分は本当に恵まれていたと思うし、唯一自慢できることかもしれない。

それなのになぜ、独立だったのか。

 

今まで、何気なく、「いや、やりたかったことなんで」と答えていたが、どこか説得力に欠けているな、とは思っていた。。多分、聞いた人はどこかで納得しながら、「変わった人なんだな」と思っていたことだろう。正直な話、自分自身も納得させる言語化ができていなかったのだ。だから、自問自答したことがある。企業内にいて大きな仕事をすることと比較して意義を考えて悩んだこともある。

 

でも、一方で「仕事は辛いけど、帰宅後や週末は趣味に没頭しているので、まぁ楽しいですよ」ということの真意は正直全然理解できなかった。「一番長い時間をかけている仕事を楽しめばいいのでは?」と思っていた。時には、偉そうに言ってしまったこともあるかもしれない。

今となっては、人それぞれでいいことだと思っているし、たまたま自分が仕事に恵まれていたことを盾にしているだけかもしれないし、むしろそういうことができる人はスゴイと思うに至った。

 

しかし、当時は、その違いを明確に言えなかった。

 

そこで出会ったフレーズが冒頭の

「楽しむために走るのではなく、楽しみながら走る」、だった。


そう、それだ、と思った。

 

<「"本気で"楽しむため」だった>

自分が設定した目標が高い場合、困難も降りかかるし、バカにもされるかもしれない。
結果的には、目標到達まで時間がかかるかもしれない。

でも、なんでその道を選ぶのか。それは、「楽しい」からだ。でも、ただ楽しいだけではない

 

スタートアップの世界は、ヒントはたくさん善意で教えてくれる人はいるが、誰も答えは教えてくれない世界だ。何が正しいかの方法論がない世界だ。答えだと言い切る人もいて説得力もあるが、自分はその人ではないし、やっている事業も全く違う。だから、全てはヒントでしかないのだ。

 

それは、次のカーブを外から回るか、内から回るかの選択が、命取りになるかもしれない恐怖もありつつが、その選択と意思決定をするハンドルを確実に自分が握っている、そういうことなのだ。

 

もちろん、企業内でも楽しい仕事はたくさんある。しかし、命取りになったり怪我をするリスクは実は会社がとってくれていた。
これは大変ありがたいことだが、本当に本気になれなかったのではないか、と思う。

 

すぐ近くに身が震えるような恐怖があることが、自分の感覚を研ぎ澄ませ、ようやく"本気"を引き出してくれる。


本気で楽しむというのは、そういうことではないかと思い込んでしまったのだ。これは今でもこれを否定する思いが芽生えたことは一度たりともない。

 

自分にとって、「本気で楽しむ」というのは、

 

テレビゲームでレースをするのではなく、実際にレースをすることであり、
机上の理論で人へアドバイスするのではなく、自分自身が実践でやることであり、
安全な立場から人のやり方にアレコレを言うのではなく、自分でやることである。

 

そういう風に思った。

「本気で楽しむことを知らずに、人生を終わりたくない」と思ったことが、独立の理由だ。

 

<企業内で恐怖を感じて仕事ができる人はほんの一握りの超優秀な人だけ>

もちろん、企業内でそういうことをやっている人がいないわけではない。でも、それは超優秀な人の話だ。凡人には、そんな環境を与えさせないのが企業という組織体の鉄則だ。当たり前だ。企業も命をおいそれと1社員に委ねるようなことはしない。

 

結局、偉そうに言っているが、ただ自分はそういう場をただ勝ち得ることができなかっただけなのかもしれない。

しかし、そのおかげで独立が最善の選択肢であり続けることができたのだ。


正直、今も1割の想定していた困難と9割の想定していなかった困難との間で、何度も頭をハンマーで殴られたかのような感覚や、描いた青写真を一瞬でぐちゃぐちゃにされるような感覚に味わうこともある。大抵、そこから這い上がることを決めるとより良いものが出来上がることが多いことは、ようやくわかってきた。

 

まだまだ、心は折れるつもりはないが、折れてもおかしくないことは容易に想像できる。折れたという経験を持つ人がいたら、そこまでやりきったことを素直に尊敬できるくらい、今ではこれを身近なことと考えるようになった。

これは、ただカーブを曲がりきれずコースアウトすることに過ぎないからだ。そして、そのハンドルを握っていた人に、誰もとやかくいうことはできない。

 

だからこそ曲がれた時の達成感は、言葉に表せられない。いや、当然曲がれるでしょうというようなゆるいカーブですら、本当に嬉しい。今は、カーブを回れるアイデアが出た時ですら、飛び上がるほど嬉しいし、考えるのが楽しい。

 

そういうことだ。
「本気で楽しみながら走ること」、これが自分にとっての独立だった。

 

さて、これで少しは納得感を得ることはできるだろうか。

「懐中電灯1%の法則」で、未知の問題を解く。

[「未知の問題」へ対応できるか]

すぐに「やってみない」人に「未知の問題」は絶対に解けない。

 

「未知の問題」とは、これまでの方法では判断できない事案や、何が問題かもわかっていないケースへの対応や、自分には解決できるのかわからないような問題のことだ。

 

ビジネスマンは大抵忙しい。だから、合間に自分のタスクをこなすことになる。そうすると、まとまった時間がなければやれないような仕事は後回しになる。「未知の問題」は後回しの典型的な対象だ。

 

[ 経営者は「未知の問題」から逃げることは許されない ]

経営者や事業のリーダーでない場合、周りの評価を得るためには、これらは極論、無視しても構わないことが多い。小さくできることをこなしていれば、十分に評価は得られてしまうからだ。もちろん、ポジティブに期待を裏切ることもないが。

 

しかし、実はそれは成長の道を少しずつ閉ざしていることなのだ。忙しくしていることで満足感を得ていると、将来のある時、空虚感に襲われることになるだろう。でも立場によってはそれだけで済むと言っても良い。


経営者やその事業のリーダーがこうなった場合、その会社や事業は「市場の成長」と「これまでの頑張り」の慣性に委ねることになる。競合の経営者や事業のリーダーがこれを打ち破れてしまった場合、「試合終了」となることさえ覚悟しなければならない。

 

このような立場の人は、ない時間の中でも「未知の問題」をきちんと判断して対処していくことが絶対不可欠なのだ。それができないなら、早くその立場から身を引くべきだ。

 

[「先天的能力の不足」に言い訳を委ねるな ]

なぜ、人は「未知の問題」をすぐにやってみようとしないのだろうか?

 

その答えは「恐怖」だと思う。
「未知の問題」への対処は、真っ暗闇で目の前にある異物へ対処するようなものだ。
ただ、大小あれど、実は人間は誰しもこの暗闇を少しだけ照らす懐中電灯を懐に持っている。でも不思議なことに多くの人がこれを使わない。

 

なぜか。

それは、真っ暗闇を照らしてみる行動は実はとても恐怖に満ちているからだ。
「もし、みたくもないものだったら」
「もし、手に負えない存在であったら」


そんな恐怖が、多くの人に懐中電灯を使わせないのだ。
そして答える、「検討します。」と。多くの場合、(結果的には)する気もないのに。

こうして、その問題は、暗い倉庫の奥にしまわれ、そのまま二度と出てこないことも普通だ。

 

上述の通り、「未知の問題」を後回しにしない力を「恐怖」への対応だと言った。

つまり、先天的能力(生まれ持った知能やスキルなど)ではないと言い切れると考えている。意思を中心とする後天的能力だ。

「いや、自分にはそういう力や経験がないので・・・。」という言い訳は「やる気がありませんでした。やるべきだと思えませんでした。」に等しいと思うべきだ。だったら、最初から潔く後者を言えば良い。

 

[ 恐怖を感じる「未知の問題」の出現は絶大なチャンス ]

もし、目の前の物体に恐怖を感じるなら、なおのこと、はっきり照らして確認をするべきだ。しかもできるだけ早く。

なぜなら、そんなチャンスなことはないからだ。

そんなに経験をしてきた、真剣に向き合ってきた自分ですら感じる恐怖だからだ。

 

競合が同じ恐怖を感じないはずがない。その中で何%の人がこれを後回しにしてくれるだろう。つまり、それを乗り越えればライバルがまた少し減るのだ。

 

[ 対処方法「懐中電灯1%の法則」 ] 

最初に問題に懐中電灯の光を当てると、想像通りの恐怖が待っている。

「あ〜、やっぱりきたか、今度こそ本当に大丈夫かな」。いつもそう思ってしまう。

 

しかし、そこで目をそらしてはいけない。実は多くの場合、その対象とその周囲を順々に照らしていくと、実はそれが未知のものだけではないことがわかる。

(ここだけすごく実務的な話を書くと、このようなケースは目の前で起きていることをテキストエディタを開いて、ひたすら文章におこすようにしている。頭の中で考えてばかりいると自分の中の恐怖感が、問題を実際よりも大きくしようとしているので、文章化することでそれが明らかになり除外できるからだ。私の中で、懐中電灯はテキストエディタだ。)


そして、実に多くのケースで、数分〜数十分で最初の大きな問題(正確には大きいと思っていた問題)の解決の糸口が見える。

今の感覚では、この閾値は作業全体にかかるだろう時間の1~2%くらいの時間だ。この感覚値は実際の作業をベースに擬似体験をしておくべきだ。300分(5時間)ほどかかると思っていた作業が最初の5分ほどで解決の糸口が見つかることが実に多いのだ。

もちろん、毎回そういうわけにもいかない。うまく解決策が見出せないこともある。敗北感も十分に味わうが、これは「失敗」と言って良い。

私自身は10~30%ぐらいで解決できない場合、負けを認めて逃げる。その問題のうち、多くの場合、人を頼ることで解決する。自分でやってみてできなかったので、すんなり人を頼れるのだ。相談しようとしたタイミング、または直後で糸口が見つかることも少なくない。メールで相談しようとして、送信ボタンを押す直前で気づくことも何度もある。

 

逆に、最初の1%の労力を惜しんで、または逃げて、この問題を心の奥の倉庫に一度しまってしまうと、再度引っ張り出してくるには時間も、恐怖も、疲れも労力も増加する。一度しまってしまったこと自体がさらに恐怖感をうむ。同様のケースはスルーして倉庫に山積みされる。

こうして対処できなかったことは「失敗」ですらない。ただの「逃避」だ。敗北感をまともに味わうことはないかもしれないので、その方が楽だと誤って思ってしまうなら、以下の言葉を復唱すると良い。

 

「失敗は成功の元であるが、逃避は成功にとっての毒である」

 

小さな違いに思いがちだが、とても大きな違いなのだ。


たった1%。それだけいいから真剣に考えよう。
解決できず絶望する恐怖に少しだけ向き合おう。他のこなせてしまう「既知の問題」タスクの達成感ばかりを味わいたくなる気持ちを少し抑えて。

それが「やってみる」ということだ。
これができない人に、その問題は絶対解けない。

 

そして、やってみると実に簡単なことがある。

そんな時は「何を悩んでいたんだ、バカだな」と数分前の自分に圧倒的勝利感を味わうことすらある。(と同時に恥ずかしさと自己嫌悪感も感じるが。)

 

この重要性を忘れないために、これを「懐中電灯1%の(問題解決の)法則」と呼ぶことにしておこう。

「悔しさ」、なければ作れ。以上。

悔しさを忘れた時に成長は止まる。

 

と、私は思う。

 

正直、悔しいことを見返してスカッとしたい、と思っていることは否定しない。

 

でも、スカッとする以上に、よく考えると悔しさがなくなることはとても怖いのではないか、と思った。こんな感覚は異常なのだろうか。

 

ある本では、深層心理でお金持ちになることを多くの人が怖がっていて、結局その通りになっている。というようなことが書かれていた。自分は、なぜか妙に納得した。

 

悔しさがあるから、楽しい。

楽しさがあるから、悔しい。

 

このバランスを失うことはとても怖い。楽しくなくなることももちろん怖いが、同様に悔しくなくなることも怖い。知りうる限りの理論上、循環しなくなるからだ。

 

自分が臆病者なのか。それは全く否定できない。

例えば、死に直面した戦いにいく士と同じ覚悟を仕切れない時点で、少なくとも誰かよりは臆病者であることは間違いない事実だ。

 

でも、この怖さを乗り越えることが成長することなんだと思った。

だから、マズロー自己実現の上に自己超越を作ったのではないかと思う。5段階という綺麗な終止符に6段階目を作るというモチベーションは、相当ではないか、と。

 

この壁は恐ろしく高いと思うことがある。でも、だからこそ超えられない自分が悔しい。と考えた時に、あ、こうやって新しい悔しいは生まれるんだな、と。つまり、目標設定で、悔しさは生み出せる。

 

高い次元で戦っている人は、普通の人にはわからない、こんな戦いをしているのではないかと。ふと思った。なるほど、ビッグマウス、有言実行、といわれる人が尊敬されるわけだ。

 

これが真実かなんて確かめる気もないけど、真実ではないと疑う気も、ゼロだ。

 

悔しさがなければ本当の底力はでない。だから、怖いのだと思う。底力のない自分なんて、むしけら(虫に失礼だが)と変わらない。それを知っているから。

 

結論。

悔しさは、なければ作れ。少しあれば、叫びたくなるくらい考えて感じろ。

(本当に悔しいと思っている人はこれを否定できないのではないか。)

 

いや、作れないという人に。

何年もかけて、自分が成したことの小ささ、を考えろ。

何十年も生きてきたのにもかかわらず、人間としての器の小ささを考えろ。

自分が、悔しさを感じない人間だと大手を振って宣言できないことに悔しさを感じろ。

 

というぐらい、悔しさは大事だと思う。

 

今、何かが辛いと思っている人へ。辛いことがいつか悔しさに変わると思う。

それは、生きる糧になり、成長する起爆剤に間違いなく、なると。

それは、実は誰もが望んでも手に入れられない糧だ。

なぜなら、それは、あなたが生きてきた証明であり、逃げなかった証明であり、チャレンジした証明だからだ。

 

もちろん、悔しさに向き合える自分に、私はなりたい。向き合いすぎて開き直れる人間にもっとなりたい。

 

本当に悔しい時は、こんなことは言えないだろうから。

最も親しい人へすら、できるだけ言わないだろうから。

 

あぁ、何十日ぶりなのだろうか、ふと悔しさを忘れたのは。

いや「忘れたことに気づけたのは」というのが正しいだろう。

まぁ、明日の朝には夢が覚めるだろうけど。

 

数年以内に自分で望んだ悔しさに後悔しているだろう自分へ、ここに残しておこう、と。

独立することは、「お金の匂いが消える」こと!?

サラリーマンを辞め、独立すると「企業の看板を外す」という表現をすると思う。


この言葉は、仕事がしづらくなる、周りの人に認めてもらえない、信用されないというネガティブな意図で使われる。もちろん、いままで通りに行かないことは当然だ。


でも、他に違う言い方ができないだろうか。

きちんと残るものがあることを伝える別の言い方が、と思った。


そして考えたのが「お金の匂いが消える」だ。

サラリーマンで無くなると「お金の匂いが消える」。
だから、信用されないこともあるし、認めてもらえないことも多くなる。

そう言うと、気楽ではないだろうか。

だって、それは決して自分の色が消えることではないから。


むしろ、お金の匂いがなくなった分、自分の色が強くなる。重要になる

お金の匂いが完全に消え去っても、
信用してくれる人や認めてくれる人は、残るし、新たに現れる。

 

ある意味、重要なものを見つけるためのスクリーニングと考えてもいいかもしれない。人生をかけた人にしかできないスクリーニングだ。


自分自身からお金の匂いが消え、自分の色だけになった時に、本当にその色を信用し認めてくれる人が見つかる。

 

お金の匂いがあるうちは、これは実はわからない。
もちろん、お金の匂いを嗅いでる人も、そんな金欲ばかりで考えているとは全く思っていない。そういう人達はその人達なりの色を探している。さがしているそれが自分の色と一致するかしないかだけだ。

そして、その色が少し合わない時にお金の匂いで取り持たれていた、そう言うことなのだ。


自分も昔は、お金の匂いで人を「面白そうかどうか」を嗅ぎ分けてしまっていたこともあるように思う。確かにこの両者、面白い人とお金の匂いがすることは確率的には相関するので、誤っていないように思える。しかし、あくまで相関であり、お金の匂いがすれば、面白い人であるという十分条件ではないし、面白い人から必ずお金の匂いがするとも言い切れない。そんな関係だと思う。

 

こういうことが実感を持てるのも中々体験できない貴重な経験だ。


そして、自分の色だけでつながった、そのつながりは、本当に貴重だし、大事に考えたいし、そうなると思う。